ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問

藍原寛子(福島在住ジャーナリスト)

チャム人の村の子どもたち(撮影:藍原寛子)
チャムの子どもたち(撮影:藍原寛子)

昨年12月のトルコ、今年1月のイギリス・ウェールズに先駆けて、安倍政権の原発海外輸出政策のとん挫の“のろし”となった、2016年11月のベトナムの原発計画白紙撤回。今年2月23日から28日まで、ベトナム研究者で原発問題に詳しい沖縄大学の吉井美知子教授の案内で、同大学の学生4人、ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン事務局の佐藤大介さん、上関原発止めよう!広島ネットワーク渡田正弘さん、日本インドネシアNGOネットワーク安部竜一郎さんらとともに現地を訪ねた。タイアン村と、原発建設予定地に暮らしていた先住民族チャム人(ベトナム人の増加や開発行為により、本来住んでいた海岸から山側へ追いやられた)のコミュニティにも宿泊した。

日本国内では、茨城県東海村を中心に、東海第二原発の再稼働を計画する日本原電による説明会が4月23日から始まるなど、国内原発の再稼働に向けた動きが強まっている。しかし、2011年の東京電力福島第一原発事故の破局的な被害と経済的なリスクを直視したベトナムの「白紙撤回」の背景は、一般に広くは伝わっていない。原発や核問題が、共産党の一党独裁政権下で情報管理がされてきた影響もあったと思われるが(核を巡る秘密主義は日本も同じ)、現地の人々と触れ合い、話し合うなかで得られる「体験知」は重要だ。

沖縄、福島、そして日本各地で脱原発をめざすメンバーで現地を訪ね、知識や経験の共有と信頼、そして励まし合いの中で市民の脱原発ネットワークを築き、「脱原発への勝利の方程式」を探るのが、今回の目的だ。

佐藤大介さんは、「ベトナムの白紙撤回は、長年、原発建設計画がくすぶっており反対運動も活発な隣国のフィリピン、インドネシア、タイ、マレーシアに大きな影響を与えた。『核ドミノ』につながりかねないASEANの『原発ドミノ』を防いだと言ってよい」と、その意義を語る。

■ ベトナム原発白紙撤回の経緯

ベトナム政府の原発事業は2009年、原発建設計画の国会決議に始まる。翌10年、日本とロシアに原発事業を発注。両原発はいずれも、先住民族チャム人が多く住んでいたベトナム中南部のニントゥアン省に予定された。

ロシアは国営企業ロスアトムが同省トゥアンナム県ヴィンチュオン村に「第一原発」を、日本はニンハイ県タイアン村に「第二原発」を計画。2012年ごろからは、建設予定地の契約締結、造成、送電網整備、道路建設などインフラ整備がすすめられた。

第一原発予定地ではこれに伴って住民の立ち退きがすすめられた。これに反対し続けたのが、先住民族のチャム人たちだった。チャム人の祖先は、2世紀から17世紀まで、東南アジアの海洋貿易を担ったチャンパ王国を築いた。現地には今でも多数の史跡が残っている。

2011年2月、日本原電がベトナム電力公社と原発建設に向けた協力協定を締結。その翌月にレベル7に達した東京電力福島第一原発事故が起きた。ベトナムにもその被害が伝わり、2014年1月にグエン・タン・ズン首相が建設延期を宣言。2016年、「再生可能エネルギーの伸びがあり、原発と他のエネルギー源が共存できなくなった」として、ベトナム政府は正式に原発事業を白紙撤回した。

吉井教授は、①ベトナムの財政難 ②国内の電力需要の低迷 ③原発産業の人材不足 ④推進していたズン首相の失脚 ⑤台湾の企業フォルモサによる公害事件 ⑥チャム人を中心とした先住民族、住民の反対運動 ― を要因として分析。そこには、ボトムアップの脱原発市民の力というより、共産党一党独裁政権下における政権中枢の共産党の政治家による「原発断念」の判断が大きかったという。

福島原発事故後、世界的に原発の安全対策の課題や脆弱性が大きな問題となり、安全対策費が高騰した。その問題指摘には、福島県民や脱原発市民らの動きがあった。それらが世界各地の社会運動や原発・核に対する世論形成に与え続ける影響を分析するには、ベトナム市民との交流も、今後も重要になると筆者は考える。

■ 現地視察

南部のホーチミン市(サイゴン)から両原発の建設予定地まで車で6時間。原発のために整備された大きな道路は通る車も少なかったが、日当たりの良い土地ではBPソーラー社によるメガソーラーパネル建設が進んでいた。巨大な風車も10基以上林立し、建設作業の重機が動いていた。原発が頓挫した後、整地された地域はチャム人に返されたわけではなく、新たなエネルギー産業による土地の収奪と開発事業が続いていたのだ。

「元」原発建設予定地の近くで建設中の太陽光発電(撮影:藍原寛子)

一貫して原発反対にとりくんできたチャム人の詩人インラサラ氏の息子、インラジャヤ氏は言う。「本来、チャム人にとって土地は共有地であり、全ての源。原発事故が起きても、この土地はチャム人の生きる全てだから、逃げる場所もない。それなのにチャム人の知らない間に計画が進められ、発言も抑えられた。結果的に原発計画を止められたのは良かった」。チャム人の中にある正義を感じた。

原発予定地だった漁村・風力発電(撮影:Tho Mai)

海岸周辺ではエビの養殖池がずらっと並び、出荷作業をする人々の姿があった。海岸近くで参加者がバナーをもって記念撮影。その海岸や、近くの漁港では、驚くほどの量のプラスチックごみが浮遊していた。エネルギーと環境問題、核や原発の使用済み燃料を含めた廃棄物問題。地球上でひとつらなりになり、巡り巡って今、ここにあるがままの姿で起きている、311後の出口なき環境正義の問題の重要性と深刻さを思った。

環境汚染に避難。福島原発事故は、世界中の原発立地地域に降りかかる共通の問題を見せてくれた。国家観光局のブイ・ドゥック・ギア氏は言う。「もしも原発事故がここで起こっていたらどうだったか。地域や国家への影響は甚大だっただろう」。現地の人々から原発の問題について話が聞けるようになったのも画期的なことだ。

2月23日にはホーチミン市で「2011年福島事故からの教訓」と題して、人命や環境問題に関して今回訪問した日本側メンバーと現地の市民によるシンポジウムが開かれた。そもそも集会が監視される状況下で、こうした集会の開催は異例という。参加者の一人は、「福島の現状も知ったし、原発を含めた開発問題や環境汚染を考える良い機会になった」。

(撮影:Tho Mai)

原子力産業が政府間の推進勢力や巨大資本とつながる一方で、福島原発事故後は環境や人権を護ろうとする市民やNGOの間に、被害を再発しないための新たな架け橋が広がっている。同時に原発のリスクを未然に防げた成功事例として、ベトナムの白紙撤回は大きなメルクマールとなったことも、今回の現地訪問で実感することができた。

■ 交流と励まし合い ― 福島、沖縄、ニントゥアン

現地滞在で筆者がつくづく思ったことは「この場所に原発が建設されなくて良かった」。福島県福島市で生まれ、震災前の福島の海岸、山々を見てきた筆者は、震災後は国内外に取材に出かければ、福島と現地を比べてしまう。ここでもそうだった。

ヌイチュア国立公園では、原発が経つはずだったタイアンの集落の背後の山へ、往復6時間の登山。急でクネクネとした山道の上り下りは、恥ずかしいぐらいバテバテだったが、沖縄大の1年生4人の明るい歌声に励まされ、ベトナム人留学生のホアンティタムさんに支えてもらって何とか山頂へ。そこには美しい滝。水は新鮮で冷たく飲んでも安全。下流の水田も潤す重要な水源だ。やはり、つい、原発事故後に放射能で汚染され、こんな風に登ることもなくなった山、手ですくって飲むこともなくなった湧き水、福島の山河と比較してしまう。

チャム人の村のインラジャヤ氏の家に民泊。夜、チャム人の人々が民族衣装を着て音楽と歌を披露してくれた。沖縄大学の学生たちはスマホでカラオケを流しながら、沖縄の歌を披露。筆者は民謡「会津磐梯山」を。美しい星空の下のあずまやで、チャム人たちと一緒に踊り、歌い…、夜は更けた。いつも歌っている朗らかな4人に、インラジャヤさんが言う。「辛いときに辛いというと本当に辛くなる。みんなみたいに笑って歌って吹き飛ばすのが、チャム人の方法なんだ」。ウチナーンチュとチャム人の共通点があった。

村吉留衣(むらよし・るい)さんは「沖縄に似ているところも違うところもあった。沖縄と比較して考えるという視点が自分にあることに気づいた」。上原聖(うえはら・りべか)さんも「自分は沖縄の人というアイデンティティがあることに気づいた」。自分自身を省みる体験だったという。

タムさんは「今回、先生をはじめみんなが来てくれて、ベトナム人としてありがたく思った。ベトナムが原発を作ろうとしていたことはインターネットで調べるまで知らなかったのは反省だったけれど、今回本当に良い勉強になった」と話す。宮城七珠(みやぎ・ななみ)さんも「ここにきて、『日本って何か?沖縄ってどこか?』と思った。沖縄は日本だけど、日本の文化でひとくくりにできない、沖縄の文化があることを考えさせられた」。

滞在中は沖縄で県民投票結果が発表され、米トランプ大統領のベトナム訪問もあった。移動のバスの中でも、社会、政治情勢を巡って、活発な会話が続いた。

■ 屈しない精神 ― インラサラ氏

今回、吉井教授の通訳で、インラサラ氏から話を聞くことができた。同氏は、原発が白紙撤回した背景をこう分析する。「国内外の知識人の声が大きな影響を与えた。とくに日本の首相に抗議文が送られたことは、非常に大きなインパクトだった。もちろん、福島原発事故の経緯は、原発の危険性をチャムの人々に身近なものとして知らせ、原発反対に向けて動く大きな動機になった」。

インラサラ氏は計画が浮上した段階から反対運動を続けてきた。反対運動を始めると、圧力、攻撃、そして孤立が同氏を襲う。「大金をやるから反対するのをやめろ」と言われたり、会合で無視されたり、原発安全セミナーへの招待状が来たり、執筆をしている同氏に対して「原稿を高く買う」という話も。このような手法は日本の「原子力ムラ」が使う手段と酷似している。

同氏は明言しなかったが、別の取材の中では生命に関わる危機もあったと筆者は聞いた。

それでも反原発のスタンスを鮮明にし、反原発の記事を書き続けた。「原発推進の集会に出れば、そのときの写真が流されてしまうから出席しなかった。でも、友人、知人が100人ほど集まった会合で、誰も声を掛けてくれなかったときは本当に辛く、孤独だった」。

一人で闘えた理由、同氏を支えたものは何だったのだろうか。

「原発予定地でのベトナム人の歴史と比べ、チャム人の歴史ははるかに長い。ニントゥアン省にはベトナムの半分以上のチャム人が暮らし、100カ所以上の重要な史跡やお寺がある。もしも原発事故が起きたら、自分たちにとって大事なものが失われてしまう。そう考えたら、何も怖くなくなった。とにかく必死で反対した」。

2015年から16年にかけて、ロシアの第一原発予定地内のチャム人の「ほこら」がなくなっていることが判明した。海上交易で栄えたチャンパ王国時代から伝わる、海難者をまつったものだ。ロシア企業に訴えると、「よそに移しただけ。賠償金を500万ドル(約6億円)払う」と言ってきたが、インラサラ氏らチャムの人々はこれを拒否した。こうした「文化・歴史・アイデンティティの破壊行為」によって抵抗運動が強まっていった。

米スリーマイル原発事故やソ連のチェルノブイリ事故当時と、2011年の東京電力福島第一原発事故後が異なるのは、SNS(個人のソーシャルネット通信)で一人ひとりの市民が情報を発信できるインターネット時代を迎えていたことだ。

その時代の中で、チャムの人々がこの地の大切さや原発反対の意見を訴える機会がなくても、国の外側から、その声を聞こうとする人々、その声を広く発信しようとする人々が現れた。イギリスやフランス、日本などの海外メディアや、研究者、支援のNGOなどだ。外からの応援が増えると、署名や抗議行動をすれば警察に逮捕される危険もかえりみず、チャム人の女性詩人キューマイリー氏がインラサラ氏に賛同。こうして一人、二人と、少しずつ賛同者が増えた。ベトナムでは極めて珍しい署名活動も展開され、その数は600人を超えた。

また、福島原発事故後の状況をまとめた日本語の資料などをベトナム語に翻訳し、政治家へと届ける市民のロビー活動も起きた。知り、学び、伝えることで、自分たちで選択する――市民の知力、行動力の情熱の発信地に、インラサラ氏がいた。

白紙撤回され、インラサラ氏の表情は穏やかだが、まだ笑顔は少ない。懸念材料があるからだ。「原発計画はなくなったが、予定地は整地され、電線もあって使える状態だ。ベトナム政府がキャンセル料を求められている可能性もあり、建設予定地が原発の代替としての核のゴミ捨て場として再利用されたり、別の国の企業が進出する、などということにならないよう、今後も注視していく必要がある」。インラサラ氏の闘いはまだ終わってはいない。

*本稿は筆者拙稿「白紙撤回されたベトナム原発の旧建設予定地を訪ねる」(『週刊金曜日』19年4月26日 1230号)を一部参考、引用しています。通訳、ご案内をいただいた吉井教授をはじめ、ご協力いただいた関係者の方々に御礼申し上げます。

(ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.157より)

白紙撤回されたベトナム原発の旧建設予定地を訪ねる(藍原寛子)PDF【週刊金曜日 4.26】より

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★ノーニュークス・アジアフォーラム通信157号(4月20日発行、B5-28p)もくじ

・ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問 (藍原寛子)
・7回目のニントゥアン (吉井美知子)
・庶民パワーを体感できたが、滞日ベトナム人への対応が問われる (渡田正弘)
・アメリカはインドに原発を輸出するな! (民衆運動全国連合ほか)
・<韓国>福島原発事故8周年、全国で脱原発大会開かれる (脱核新聞)
・核廃棄物の公論化、出発から激しい反発、各地域で対応様々 (ヨン・ソンロク)
・トルコ人の66%が原発に反対:2018年世論調査 (森山拓也)
・誰が生み出した核廃棄物か? 何故タオ族に片付けさせるのか?(張武修)
・東アジアの脱原発型社会を構想する (佐々木寛)
・ゾンビ会社日本原電の東海第Ⅱ再稼動はさせられない! (村上達也)
・柏崎刈羽原発の再稼働阻止、廃炉に向けて (矢部忠夫)
・高浜1・2号機、美浜3号機の廃炉を求めて (安楽知子)
・3ちゃんを偲ぶ 〜命を賭けて戦った漁師〜 (柴原洋一)
・東海第二原発の再稼働認めない ― 首都圏・意見書のとりくみ  (小熊ひと美)

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インラサラ氏・スピーキングツアー「ベトナムは原発輸入計画を中止しました!」

 

6月インラサラ氏・スピーキングツアー日程
20日(木) 辺野古など訪問、18:30 沖縄講演会(沖縄大学)
21日(金) 18:45 福島交流会(AOZ視聴覚室)
22日(土) 12:30 「日本平和学会 in 福島」分科会(福島大学)
23日(日) 福島県浜通り視察など
24日(月) 18:30 東京講演会(文京区区民会議室4Fホール) 参加費800円

共催:沖縄環境ネットワーク、沖縄大学吉井美知子研究室、原子力資料情報室、原発いらない福島の女たち、国際環境NGO FoE Japan、ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン
後援:一般社団法人アクト・ビヨンド・トラスト、日本平和学会「3・11」プロジェクト委員会

チャム人の村の子どもたち(撮影:藍原寛子)

ベトナム政府は2016年11月、ロシアと日本による原発建設計画を中止しました。原発建設予算の倍増および財政難が中止の理由といわれていますが、内外の様々な言論活動なども影響したと思われます。チュオン・タン・サン前国家主席は白紙撤回の背景について「国民、 特に建設予定地の住民の心配が大きくなった」と述べました(共同通信2017.12.2)

先住民族チャム人の文学者であるインラサラ氏は、2012年4月に小説「チェルノフニット(チェルノブイリとフクシマとニントゥアンの意味)」を執筆しました。また、同年5月、「原発輸出は非人道的である」とする日本政府への請願書に、インラサラ氏ら多くのチャム人を含め626名が命がけで署名しました。インラサラ氏は、圧力や攻撃で命の危機に直面しながらも原発を止める取り組みを止めませんでした。

インラサラ氏はつぎのようにも述べています。「福島原発事故の多くの被災者は、我々に大災害を免れる人類の運命について覚醒を促し、それを通して、この危険で苦難に満ちた地球上に生きるすべての人類に警告してくれている」

原発建設予定地とされたニントゥアン省は、相対的に貧しい地域でチャム人が多く暮らしているところであり、福島や沖縄にもつながる「構造的な暴力を含む差別」のもとで強引に原発建設計画が進められようとしていました。

このたび、インラサラ氏を日本に招き、原発を輸出されようとした側の声に耳を傾けたいと思います。

*インラサラ(INRASARA)氏プロフィール
1957年ベトナム、ニントゥアン省チャクリン村に生まれる。ニントゥアン・チャム語書籍編集委員会、その後、ホーチミン市総合大学ベトナム東南アジア研究所に勤務。1998年よりサイゴンにてフリーライター。チャムの文化および言語を研究する傍ら、詩、小説、評論や文学批評を発表。雑誌『ダガラウ-創作・エッセイ・チャム研究』を主宰。国内外の多くの賞を受賞。2005年にはベトナムテレビ局より、年間文化人賞に選ばれる。原発建設計画が浮上した直後からチャム人の先頭に立って反対を唱え、一時は安全が脅かされるような状況に置かれた。Inrasara.com 主宰

チャム人の村の子どもたち(撮影:藍原寛子)

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10枚とか50枚とか、郵送します

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★【沖縄タイムス6.5】より
【論壇】「原発撤回したベトナム、地元先住民族らの反対影響」
桜井国俊(沖縄大学名誉教授、沖縄環境ネットワーク世話人)

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★【週刊金曜日 4.26】より
「白紙撤回されたベトナム原発の旧建設予定地を訪ねる」(藍原寛子)PDF

白紙撤回されたベトナム原発の旧建設予定地を訪ねる(藍原寛子)PDF【週刊金曜日 4.26】より

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★ノーニュークス・アジアフォーラム通信157号(4月20日発行、B5-28p)もくじ

・ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問 (藍原寛子)

ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問


・7回目のニントゥアン (吉井美知子)
・庶民パワーを体感できたが、滞日ベトナム人への対応が問われる (渡田正弘)
・アメリカはインドに原発を輸出するな! (民衆運動全国連合ほか)
・<韓国>福島原発事故8周年、全国で脱原発大会開かれる (脱核新聞)
・核廃棄物の公論化、出発から激しい反発、各地域で対応様々 (ヨン・ソンロク)
・トルコ人の66%が原発に反対:2018年世論調査 (森山拓也)
・誰が生み出した核廃棄物か? 何故タオ族に片付けさせるのか?(張武修)
・東アジアの脱原発型社会を構想する (佐々木寛)
・ゾンビ会社日本原電の東海第Ⅱ再稼動はさせられない! (村上達也)
・柏崎刈羽原発の再稼働阻止、廃炉に向けて (矢部忠夫)
・高浜1・2号機、美浜3号機の廃炉を求めて (安楽知子)
・3ちゃんを偲ぶ 〜命を賭けて戦った漁師〜 (柴原洋一)
・東海第二原発の再稼働認めない ― 首都圏・意見書のとりくみ  (小熊ひと美)

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上関にもベトナムにも原発はいらない!― 祝島の現状と、ベトナム訪問報告―

お話;渡田正弘さん(上関原発止めよう!広島ネットワーク)

5月12日(日) 14:30~16:30 (14:00開場)

新大阪丸ビル本館 710号(JR新大阪駅東口より2分) 800円

原発予定地だった漁村にて(たらい舟)

ベトナム政府が2016年に、ロシアと日本が輸出予定だった原発建設計画を中止したことは日本でも広く報じられました。中止の一番大きな理由は財政難とされましたが、ベトナム内外でのさまざまな言論活動も計画中止に大きな影響を与えたことが知られています。

2月、渡田さんはそうした現地の状況を視察するためベトナムを訪問しました。原発問題についての画期的な集会への参加、原発に反対する作家インラサラ氏との交流、そして原発予定地だったニントゥアン、先住民族チャム人の村も訪れました。

「日本が原発建設を予定していたタイアン村は、上関原発に反対し続けている祝島を連想させる美しい場所でした。すれ違った村民の女性も笑顔を返してくれました。原発反対のバナーを広げての写真撮影ができたことも画期的でした」と語る渡田さんは、上関原発建設計画に反対する活動にも精力的に関わっておられます。

上関原発を建設するために予定地「田ノ浦」がまさに埋め立てられようとした2010年12月~11年2月に、毎日のように現地に駆けつけ、体を張って埋め立てを阻止しようとする祝島の女性たちや漁船団とともに最前線でたたかいました。

上関原発の反対運動に長くかかわってこられた渡田さんの目には、ベトナムの姿はどのように映ったでしょうか。ベトナム訪問報告とともに上関原発計画の今についても最新情報を伺います。

原発予定地だった漁村・風力発電(撮影:Tho Mai)

*渡田正弘さん:1970年代に東京で「台湾の政治犯を救う会」活動に従事。環境NGO「市民フォーラム2001」スタッフを経て、現在「グローバリゼーションを問う広島ネットワーク」事務局長。

祝島の漁船団

白紙撤回されたベトナム原発の旧建設予定地を訪ねる(藍原寛子)PDF【週刊金曜日 4.26】より

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★ノーニュークス・アジアフォーラム通信157号(4月20日発行、B5-28p)もくじ

・ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問 (藍原寛子)

ベトナム 2原発 白紙撤回の現地を訪問


・7回目のニントゥアン (吉井美知子)
・庶民パワーを体感できたが、滞日ベトナム人への対応が問われる (渡田正弘)
・アメリカはインドに原発を輸出するな! (民衆運動全国連合ほか)
・<韓国>福島原発事故8周年、全国で脱原発大会開かれる (脱核新聞)
・核廃棄物の公論化、出発から激しい反発、各地域で対応様々 (ヨン・ソンロク)
・トルコ人の66%が原発に反対:2018年世論調査 (森山拓也)
・誰が生み出した核廃棄物か? 何故タオ族に片付けさせるのか?(張武修)
・東アジアの脱原発型社会を構想する (佐々木寛)
・ゾンビ会社日本原電の東海第Ⅱ再稼動はさせられない! (村上達也)
・柏崎刈羽原発の再稼働阻止、廃炉に向けて (矢部忠夫)
・高浜1・2号機、美浜3号機の廃炉を求めて (安楽知子)
・3ちゃんを偲ぶ 〜命を賭けて戦った漁師〜 (柴原洋一)
・東海第二原発の再稼働認めない ― 首都圏・意見書のとりくみ  (小熊ひと美)

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ベトナムの原発計画:中止のワケ

ベトナムの原発計画:中止のワケ(吉井美知子)

2016年11月22日、ベトナム国会は同国初の原発建設計画の中止を議決した。2009年に計画推進が議決されてから、7年後の中止決定であった。いったいなぜ? 計画をふり返り、中止のワケと今後の展望にせまってみたい。

● 当初計画、反対運動から延期まで

2010年にベトナム初のニントゥアン第一原発はロシアの、同第二原発は日本の受注が決まる。直後に3.11が起こるのだが、計画は止まらない。当初は、第一原発を2014年に着工、2023年稼動、日本の第二原発はその1年遅れのペースで建設を進め、2030年にはベトナム全国で14基が稼動するはずになっていた。

2012年6月には、ベトナムでは珍しい反対署名運動が起こる。内外のベトナム人ら600名以上が署名して、日本の野田首相宛てに「原発への支援は、無責任、非道徳、非人道的である」と。抗議状を掲載したブロガーは罰金刑を課され、署名者のなかで公安警察に呼び出されて絞られる者が続出した。

それでも原発建設準備は着々と進み、第一原発の敷地は全村民を移転させて確保が終わり、周辺インフラの整備が進んでいた。そんな矢先の2015年1月、グエンタンズン首相が突然、計画の延期を発表する。人材育成と安全性確保のため、2020年以降の着工になるという。このあたりから、どうやら雲行きが怪しいという雰囲気が漂い始めた。

2016年7月、共産党中央政治局が、計画撤回を議決したらしい。8月には、筆者が参加したベトナム人の国際学会ですでにその噂が流れていた。9月に渡越して党幹部に尋ねて回ったところ、どうやら本当らしいとわかる。「あとは10月の共産党中央委員会で推進派を押しのけて議決をして、さらに国会議決をしたら止まる。ただし党内には推進派もいるからね・・・」というのが、9月時点での某反原発議員のコメントだった。

ドキドキしながら待っていたら、本当に党中央委で議決され、日本の新聞にも「白紙撤回か」という記事が出た。トランプ当選と重なったので扱いこそ小さかったけれど。さらにワクワクしながら待っていたところ、国会でも中止が決議されたのだった。

● 中止のワケ

いちばん大きな理由は、「原子力ムラ」ができる前だった、ということかと思う。巨額のカネが動かないうちに、ベトナム側でやめようという話になった。それには今年春のグエンタンズン首相の失脚が大きい。先頭に立って原発を推進していた親米・親日派である。任期満了で再任されず、政権中枢から姿を消した。いちばん賄賂を多くもらっていた「村長さん」がいなくなって、収拾がつかなくなったのだ。

同じく2016年春、とんでもない大公害事件がベトナム中部で起こった。台湾資本の製鉄所が猛毒の廃液を海に垂れ流し、海岸線20キロにわたって何十トンもの魚の死骸があがった。死者も出ている。ベトナムでは台湾の会社名をとって「フォルモサ事件」と呼ばれている。賠償が少なく、職にあぶれた漁民ができないはずのベトナムで一大デモをやり、大騒ぎになっている。これがもし原発だったら、放射能だったら、という類推は党幹部にも容易にできたことだろう。

フクシマ事故で計画が止まることはなかったが、安全性の見直しという点では大いに影響があった。日本の第二原発予定地の敷地の位置や海抜も変更になって、かさ上げの大工事が予定されていた。原子炉そのものの安全性も見直され、コストはどんどん上がった。ベトナム政府が公式発表で中止の一番の理由としてあげている「財政難」も、有力な理由であったろうと思われる。とくに、ベトナムは円借款が嵩み、円高でその重みがひとりでに増すなど、大変苦慮している様子は8月の学会でも発表されていた。

当の輸入先の日本では、原発は安全だと叫ばれながらも、フクシマ事故前には54基あった原子炉が2年間近く稼動ゼロだった。現在もたったの3基しか動いていない。ベトナムの庶民にはそういう情報が少ないが、党幹部にはしっかり把握されている。「先進国が次々脱原発を進めているのに、いまからウチがやることもなかろう」と多くの幹部が考えたとしても不思議はない。

表現の自由が厳しく制限されているベトナムだが、イギリスBBC放送やフランスRFI放送などが、バンコク経由でベトナム語のラジオ放送を流していて、こっそり聴くことができる。インターネットはうまく操作すれば、禁止されているHPにも匿名でつなげることができる。多くの越僑や外国人が原発についての論述を発表した。筆者のドイツ出張中には、BBCのクルーがやってきてベトナム語のインタビュー動画を撮って放送してくれた。ベトナム国内の大学では講演に呼ばれて、そのたびに違うタイトルをつけて、蓋を開けてみれば原発事故の話ばかり、というようなことを何回もやった。坂本恵福島大学教授が中心となり、日本国内のフクシマ事情の文書を越訳して、ベトナムの国会議員に配るという活動にも参加した。こういう草の根の活動が今回の中止決定にいくぶんか貢献したともいえるかと思う。

● 今後の展望:二回戦に向けて

筆者が3年前まで住んでいた三重県では、芦浜原発計画を中止に追い込んだ運動が有名だ。1960年代に一回戦、1990年代に二回戦があり南島町(当時)を中心とした反対派が二勝ゼロ敗で勝ち越している。

ベトナムも二回戦を覚悟しよう。そのうち中国が原発をと言ってくるのではないか。すでにベトナムとの国境近くまで建設が進んでいる。

今回の計画中止にあたり、ベトナム政府からは国民に向けて理由の説明があった。安全性を高めるためにコストが跳ね上がり、投資に見合わなくなった、使用済み核燃料の処理が問題だ、電力なら再生可能エネルギーを推進すればよい、他国でも原発計画を中止した例はある、等々。

いまベトナムで、これまで言えなかった反原発の論理を、政府が先頭に立って広報している。この機に、この政府広報を後押しして人々に原発をわかってもらおう。そうして将来、二回戦になっても誰も計画に賛成する人がいないようにしてしまおう。今がチャンスである。

(ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.143より)