2017年8月10日から15日まで佐藤大介氏とともに韓国を訪れた。ムン・ジェイン大統領が脱核宣言をして2か月ほど。しかし現地の人々に白紙撤回すると約束していた建設予定の核電は、3ケ月間の公開討論(公論化委員会による討論)を行った後に結論を出す、また工事を中断するとしていた完成間近の核電は完成させ、その設計寿命まで運転を認めるため脱核が実現するのは2076年という。この政策が韓国の人びとにどうとらえられているのか、それを探る旅だった。
■ 戦場を知らない子どもたち
ソウルに地下鉄で入ると、まず日本大使館の前にあるという従軍慰安婦少女像を探した。この日の宿舎がその近くにあるからだ。大使館に向かい合っているようなイメージを勝手に持っていたが、入口からは少し離れて、道路のほうを向いて静かに座っている。
「戦争を知らない子供たち」という歌がある。これにはずっと違和感があった。この歌自体は「戦争が終わって僕らは生まれた♪」という歌詞だから、ここでいう「戦争」は一般的な戦争ではなくThe warつまり十五年戦争であり太平洋戦争を指しているのだから作詞の北山修に誤りはない。しかし、いつの間にか私たちは、一般的な意味での戦争をも含めて、私たちは戦争を知らない、と思いこまされてきたのではないだろうか。
でも本当は、私たちは、この国は、ずっと戦争と共にあった。そもそも敗戦後に始まった朝鮮戦争がこの国の経済に奇跡的な向上をもたらし財閥も戦犯も復活を果たしたのだ。その中にはもちろんあの岸信介もいる。その後もベトナム戦争、湾岸戦争と直接的な武器輸出こそ行わなかったかも知れないが、戦争による好景気をもとにしてこの国は発展してきたのではなかったか。
かなりモノが分かっていると思っていたキャスターが「戦争を望む人なんていないんですから」というのを聞いて愕然とすることがある。冗談ではない。およそ近代の戦争は金儲けのために仕掛けられてきた。民族紛争も領土問題もそのための材料として利用されたに過ぎない。
おそらく日本でも戦争をしたがっている人々は戦争をよく知っているだろう。それで儲けてきたのだから。「戦場」を知らない、のは確かだ。しかし、戦場を知らないくせに、戦争で儲けてきたことを知らない、知ろうともしないで私たちは過ごしてきたのだ。そのことを見つめなおすことから始めて行きたい。少女像を見つめながらそう思った。
■ ソウル市の取り組みと緑の党
夕方、緑の党のイ・ユジンさんの話を聞いた。特にソウル市の取り組みが興味深い。日本での3.11の東電事故や、同年9月に韓国全域で発生した大規模な停電に触発され、大都市ソウルの役割として、使用電力の削減を目指して「核電一基削減市民委員会」が2012年に設立された。
太陽光パネルの設置などの生産、省電力の機器を使うことによる効率化、そして節約を組み合わせて核電1基分の電力削減を行おうというものだ。
そしてそれは2014年にすでに達成され、第二段階として都市であるにも関わらず、2020年までにエネルギー自給率を20%にする目標を掲げている。
他にも分散型のエネルギーを目指すことや、新エネルギーにより雇用を創出すること、また低所得世帯ほど高価なエネルギーを使わざるを得ないことから、エネルギー福祉という概念でその改善のための基金を作るなど、積極的な取り組みが行われている。
そしてそうした政策を紹介する綺麗なパンフレットも作成されており、英語版はもちろん日本語版まである。その取り組みは、エネルギー問題を困った「問題」として捉えるのではなく、乗り越える過程も含め、イメージ向上へつなげる前向きの姿勢が感じられる。
そうしたユジンさんの話が終わろうとしたころ、脱核が実現するのは2079年というのはどうなんでしょうねえ?という質問に、俄然声が大きくなった。大事なのは今見通せる予定だけではなく、この大統領の任期5年の間に核電ではなく自然エネルギーを広げていくシステムを作ることだ、自然エネルギーが商業的にも成り立つようになり、それが普及すれば政権が変わってもその道は続いていく。その先に脱核がやってくるんです。
翌日、ユジンさんの自宅を訪れ、初期のころに設置したという太陽光パネルを見せてもらった。思ったほど大きなものではないが、逆にごく自然に普及していくためには、小さくても実際に電力を生産するという意識を持てることも大きいのではないかと思った。
■ 慶州地震の恐怖
韓国の脱核への流れを決定づけたのは3.11の東電事故と、2016年9月に発生した慶州地震であるといわれる。まずマグニチュード5.2の地震が19時44分に起きたあと、ほぼ1時間後に同5.8の地震が発生した。二回目のほうが大きいのは珍しいが、これは同年4月に発生した熊本地震と共通している。
韓国では地震は少ないため、3.11のときも核電の問題はあるにしても、地震については韓国は大丈夫だ、という雰囲気があったらしい。それがこの慶州地震で一気に問題化したのだ。
通訳をしてくださったキム・ボンニョさんのつてで、歴史文化都市として名高い慶州の市内に住むパク・スンイさんに話を聞いた。
食事の支度をしているところで、ドーンと音がしたので、てっきり北朝鮮のミサイルが着弾したと思ったという。その後、ユッサユッサと揺れたため地震だと気が付いた。家ごと揺れる感じで、特に棚の物が落ちるといったことはなかった。初めての体験でとても怖かったが、核電のことまで気が回らなかったという。
■ ウォルソン核電の反核テント村
ウォルソン核電のPR館の前に鉄パイプとビニールでできたビニールハウスのような建物が建っている。
そこでファン・ブンヒさんが迎えてくれた。1983年に運転を開始したウォルソン核電1号機の設計寿命30年を延長しようという動きに反対して、2014年の8月からこのテントを建てて座り込んでいるという。韓国水力原子力発電(以下、韓水原)の敷地だが、いまのところ強制排除はされていない。
3.11の東電事故も影響しているという。日本の核電は耐震性も信頼性も高いと思っていたのに、それが事故を起こしたことで私たちにも同じことが起こるのではないかと思ったという。
ウォルソン核電は日本にはない型、カナダ型のCANDU炉である。この炉は重水を使用するためトリチウムを大量に排出する。トリチウムは三重水素のことで、弱いベータ線を発するが、分離しにくく、東電事故で冷却水をタンクに貯蔵し続けなければならない原因となっている物質だ。
(日本の法律では一般的なトリチウムは3.11以前より10億ベクレル(1L当たりの場合は1億ベクレル)までは放射性物質とみなさないことになっている。以前知らずにLUMINOXという時計を買ったのだが、それはトリチウムガスを封入したガラス管により12年間は発光し続けるというもので、元は軍事用に開発された。12年間というのはトリチウムの半減期である。それがちょうど10億ベクレルのトリチウムを含んでいる。このためこの時計は、普通に宅急便で郵送されてきたし、荒ゴミとして私が捨てることもできるのだ。この緩い基準にはこのCANDU炉が関係しているのではないかと私は推測している。)
このため、このあたりの住民の尿からはトリチウムが検出され、とくに成長盛りの孫たちのほうが多く検出されるという。健康に影響はないといわれているが体にいいはずがなく、今は集団移住することも要求しており、4世帯ほどの住民が交代で座り込んでいる。毎週月曜日には、自分たちの棺桶を担いで核電の門までデモをしているという。
慶州からも近いので、ファンさんは地震も体験された。二回目のほうが大きく、棚から物が落ちたという。家にいると怖いので、車でひらけたところに逃げていたが、それでは情報が得られないので、家の前に戻ってきて、交代で家の中にテレビを見に行ったという。孫たちはいまでも、大きな音がすると、地震じゃない?と驚くという。
地震の翌日には、当時まだ公示前でいち国会議員だったムン・ジェイン氏が訪ねてきた。通り一遍の訪問ではなく、私たちの話を十分に聞いてくれて、核電のこんなそばに人が住んでいることに驚き、私が大統領になった時には脱核する、と言ってくれたとファンさんは話す。
テントの前で写真をとって100mほど歩いて浜に出ると、目の前にウォルソン核電がそびえていた。ファンさんは犬と孫たちを連れていっしょに来てくれた。いつごろ核電が建ち始めたのか覚えていないという。当時は独裁政権下だ。住民の同意を得て建てられた訳ではない。放射能についても何も知らされず、電気を作る工場、くらいにしか思っていなかったという。核電や放射能の問題を知ったのは民主化後のことになる。
■ 建設の止まった新コリ5,6号機
写真家のチャン・ヨンシク氏にコリ核電と新コリ核電の撮影ポイントを案内してもらった。チャン氏はもう10年もコリ核電を撮り続けているという。
特に新コリ核電5,6号機の状態を見たかった。この二つの核電は建設中だったが大統領の決断により建設は中断されている。建設は30%進んでいるといわれている。
実際に見てみると、確かにクレーンなども止まったままで人の姿もない。また地上構造物はほとんど見えないので、建設がそんなに進んでいるのかどうかも分からない。私たちは台湾の第四核電の建設現場を何度も訪れており、巨大な地下構造物が建築されるのを見てきたので、30%という進捗を必ずしも否定しきれない。というわけで、できるだけ近くで見たかったので、人影もない開いているゲートから入ってどんどん近くに寄っていった。だいぶ近くまで寄れたけれど、高さがないのでどうしても建設状況がみれないなぁ、と思っていたら、知らない車が入ってきてチャンさんに話しかけている。どうやらこちらに気が付いて警告に来たみたいだ。さっきのゲートからこっちはたぶん韓水原の敷地だったのだろう。
とりあえず、引き返していたら、今度はより重々しい感じの車がやってきたので足を速めた。やばいかも知れない。チャンさんが話を続けてくれている。こういう場合、へたに残るより立ち去ったほうがいい。先に車を出してとりあえず遠ざかっていると、チャンさんから電話が入り、事なきを得たようだ。どーなることかと思った。
その後、新コリ核電から1kmほど離れたところの住宅街を見せてもらった。その付近だけ同じ時期に建てられたと思われる小ぎれいな住宅が並んでいる。この住宅の人びとは、初期のコリ核電が建てられた際に移住させられ、その後、移住先に新コリ核電が建設されることになったため、再度移住させられたのだという。
ところで、コリ核電と新コリ核電はてっきり敷地が離れているのだろうと思っていたが、ほとんど続いている。キム・ボンニョさんに聞くと、「新」と付けたほうが安全な印象を与えるので、そうしているのだろう、とのこと。韓国ではウォルソン核電、ウルチン核電でもほとんど続いた敷地なのに最近の核電には「新」を付けている。
さらにウルチン核電はハヌル核電に、ヨングァン核電はハンビッ核電に名前を変えた。それもイメージをよくするための改名らしい。
というわけなので、私は従来通りの名前で呼称しようと思っていたが、気になることがあった。私は3.11の事故のことを東電事故と呼ぶ。地名で名付けられた名称では、まるでその地域のみが被害を受けたかのような印象を与えてしまう。韓国の新聞記事によれば、改名は「地域経済とイメージに悪影響を及ぼす、という住民の意見を反映」したものだという。それが本当なら、やはり新しい名称のほうがいいのかも知れない、とも思う。
■ キム・イクチュン教授のお話
前編で紹介しきれなかったキム・イクチュン教授のお話をまとめて紹介する。
・政府の政策転換について
大統領の脱核政策により、産業部の公務員たちは180度立場が変わったことになる。これまでは核電がいかに必要かを広めることが仕事だったが、今は自然エネルギーを広めることが仕事になった。
もちろん納得していない人もいるだろう。しかし、韓国の自然エネルギーの普及が世界にくらべて極端に遅れていることを知らなかったはずはない。彼らは間違っていたとは言わないが、時代が変わった、と言わざるを得ないだろう。
核電勢力をあまりにも弾圧するのはよくないと思っている。反抗を呼べば政策は失敗する。
脱核が勝った背景は30年に及ぶが、日本での東電事故が韓国の脱核運動にもっとも大きな影響を与えた。韓国でもあのような事故が起こりうるとみんな思ったし、その後の慶州地震もそれを後押しした。
私に連絡してきたとき、すでにムン・ジェイン大統領は脱核の意識を持っていた。
・高レベル廃棄物問題について
高レベル廃棄物は核電内で仮置きしているが、手狭になってきたためリラッキング(ラックに間隔を狭くして置きなおすこと)している。危険性は増すが、今はそうせざるを得ない。
前の政権のとき使用済み燃料の公論化委員会を行い、二つの結論を得た。最初は敷地内に中間貯蔵し、その後永久処分するための処分場の選定方式を定めた。しかしその方法には大きな問題がある。慶州の低レベル処分場のときもそうだったが、敷地の安全性は考慮せず、住民が許容すれば決定してよい、ということになってしまっている。
高レベル廃棄物の問題は、私たちにとって隠している武器といえる。今は核電の事故の影響を強く訴えているが、廃棄物の問題は解決不能な問題なのだから、この問題は核電を止める大きな議論を引き起こすことになるだろう。
・再処理について
韓国はパイロプロセッシング(乾式によるウラン/プルトニウム抽出方法)による再処理を進めようとしていたが、これについても予算をなくす方針だ。もんじゅ中止の影響もあるが、ほとんどの専門家は高速炉の実現性に疑問を持っている。この問題も公論化により取り上げられるだろう。そうすれば白紙になる可能性が高い。
プルトニウムは核爆弾にするしか使い道はないのだから、日本で行われている核燃料サイクルは、一言でいえば税金泥棒が目的だ。多くの国民の目を盗んで、一部の国民の潜在的核保有国になりたいという欲望を餌にして、泥棒を続けていた。日本ではそれに成功したが、私たちは日本からあまりにも多くのことを学び、核燃料サイクルは詐欺だということを知っています。
・核電輸出について
海外輸出については大統領は妨害しない、と言っている。しかし、核電輸出が韓国経済の助けになっているか、それは検証が必要だ。
UAEに4基輸出したけれど、その契約内容が公開されていない。しかし膨大な技術料を払ったことなどが次第に明らかになってきている。その技術料は政府が半分以上を拠出した。そもそもダンピング輸出なのにUAEにもお金を貸している。
そして万が一事故があれば韓国政府が責任を取るとか、使用済み燃料も韓国へ持ってくるという報道もあった。こうしたことが公開されれば、輸出がなんら利益にならないことがわかる。
大統領は妨害しない、といいましたが、情報を公開することで輸出はできなくなるでしょう。
・脱核の可能性は100%です。
脱核宣言をした国でも、一度決めてまっすぐに進んだ国は少ない。日本も宣言したがひっくりかえった。他の国でもいったり来たりを繰り返しながら進んでいる。
なぜか。国民のほとんどが納得するまで説明を続けなければならない。だから逆に戻ることもある。
しかし、国民の7割以上が賛同するようになれば戻ることはないだろう。
韓国ではこの5年間に国民が賛同するように説明することだ。直近のコリ核電5、6号機の公論化委員会では負けるかもしれない。しかしこの後、5年の間、国民が説得されれば脱核はやめることができない。
一番重要なのは宣伝、教育にかかっていると思っている。
現在の政府は核電の広報を禁止している。今後はそうした予算をなくす。教科書を通じて実体を教えていく。そうすれば勝算があると思う。
このように力強く語った教授は、私たちと早めの夕食をとったのち、近くの会場で核電についての講演会で講師をしていた。そっと覗くと原子炉の図を使って説明しており100名以上の人びとが聞き入っていた。なんともパワフルな人である。
■ サムチョク 核電を止めた町
日本でもそうであるように、韓国でも核電が建設されたところよりも、阻止したところのほうが多い。サムチョクは、そうした町の一つで強い反対運動により核電の建設を阻止した歴史がある。今回最後の現地として訪れたサムチョクはそうした町だった。
迎えてくれたマ・ギョンマンさんは台湾のNNAFにも参加したこともあり、日本語が話せる。
マさんの車で連れて行ってもらったのが8・29記念公園にある核電白紙化記念塔だ。1991年に核電建設の計画が伝えられると、様々な反対運動が実行され、中でも1993年8月29日に大規模な反対集会が開かれた。そうした運動の結果、ようやく1998年に計画の破棄を正式に認めさせたのだ。それを記念して翌年に作られたのが、この核電白紙化記念塔だった。
しかし、その後2005年には核廃棄物処分場の候補地にされたが、それも住民の反対により跳ねのけた。さらにその後、2011年の末に再び核電の新規立地予定とされてしまっていた。
マさんも反対運動をしてきて、1986年には日本の大学にいっていたこともあり、学生時代にも日本語を勉強していたので日本語が話せるという。
50歳を過ぎて結婚する際、意を決して帰農することとし、いちご農家を始めたという。案内してもらったいちごのビニールハウスは巨大だった。4棟ほどあるビニールハウスは、3重にビニールが張られており、韓国の冬にも耐えられるようになっている。棟ごとに時期をずらして生育するが、植え替える際には、一度、土だけの状態で高温状態を保持することで、病害虫を予防することができ、農薬を使っていないという。
そして、ビニールハウスの作業場は、画家であるお連れ合いのアトリエでもあった。農作業で働く人々などを主に描画されており、無数のデッサンと油絵があった。
びっくりしたのは、その中に水戸喜代子さんの肖像画とデッサンがあったことだ。聞くと台湾のアジア・フォーラムで知り合い、その後何度かマさんのところを訪れているという。つい、数か月前にも来たという。ちなみにマさんは中国語もできるので、水戸さんとは中国語で話すというのも、なんともインターナショナルである。
その日は脱核巡礼の活動を続けているイ・オクプンさんの家に泊めてもらった。サムチョクの海水浴場に面した海の家のような、夏にはこよなく快適な場所だった。
ただ翌朝、たまたま早く目が覚めた私が海に上る日の出の写真を撮っていると、北から南へ、目の前を横切って3人の若い兵士が銃を構えたまま歩いていった。おそらく、脱北者が上陸した形跡がないか確認しているようだった。ここでは当たり前の光景なのかも知れない。しかし、私には改めてこの国の状況を思い知らされた気がした。
■ 脱核への舵を握った韓国の人びと
最後の夜にはイ・ホンソク、ユ・ジョンホ、小原つなきというなじみの面々と遅くまで話をした。
イ・ホンソク達もムン・ジェイン大統領の姿勢を評価している。いろいろ問題はあるが、確実に前進しているんだ、という自信を感じた。そもそも核電なんて、どうやったって衰退していくしかないわけで、日本においても脱核は時期の問題でしかない。でも日本にいるとどうも、そういう風に落ち着いて対処することができないのはなぜだろう。
韓国でも大統領が脱核において公約から後退したことを厳しく批判する声も当然ある。日本で同じ状況になれば私もたぶんそう主張するに違いない。しかし、20年来、脱核を目指してきた仲間がこの状況にようやくこぎつけて、その現状を肯定していることは、私には信頼することしかできない。
今回「脱核への舵を切った」ではなく「舵を握った」と表現したのは、強い流れに舵を取られ、脱核への動きが阻まれることも彼らは覚悟しているからだ。しかしそのとき、舵を持つ手にその流れを感じることができるだろう。そしてその手ごたえは、そのあとに再び舵を切る力に繋がっていくはすだ。
そうした民主主義の手ごたえを彼らは感じ取っているのだ。
台湾、そして韓国と脱核へ向かう隣国を知るにつけ、うらやましい、とつい思ってしまう。しかし、それができるのにはちゃんと理由がある。台湾は三か所にしか核電はなく、四か所目は止めている。韓国も集中してはいるが四か所にしか核電はできていない。いずれも独裁政権下で、いやおうもなく建てられてしまった場所だ。民主化が叶ったそのとき、手にした権利がいかに大切なものか、その前の時代を体験したからこそ実感できたのではないだろうか。だからこそ、民主化後、新しい核電立地箇所を台湾、韓国は許していない。
そしてその厳しい時代を招いたことに、日本はもちろん無関係ではない。
チューリップが春、花を点けるのは冬の寒さを耐えたからだという。春の花の美しさだけでなく、その過ごした冬の厳しさをも、もっと学びたいと思った。
※この旅ではキム・ボンニョさんに通訳、運転、コーディネートなど本当にお世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。
※ところで本稿ではせっかく韓国のお話ですし、原発のことを核電と表現してみました。意外と違和感ないと思われませんか?
追記:本稿を脱稿した後、公論化委員会による結論が出て、新コリ5,6号機の建設を継続するという報が入ってきた。当然原稿を修正すべきところがあるだろうな、と思って読み返してみたが特にそのような箇所がない。意外に思うと同時に私たちが会った人々はこの結論も想定した上で、進もうとしていたのだと思い当たった。
そういえば、日本から輸出された台湾第四核電の建設がどんどん進んで、死を賭してでも止められないかと私が思い悩んでいたことがあった。そのとき台湾の友人に「建設して儲けるだけ儲けさせて動かさなきゃいいんだよ」と言われて拍子抜けしたことを思い出した。冬を耐えた花に比べて、私はなんて脆弱なんだろう、そう思ったものだった。
とーち(奥田亮)