「非核のアジアを夢見て」 王舜薇

台湾の40年間の反原発運動の歴史をまとめた『海島核事』(王舜薇・崔愫欣・劉惠敏・賴偉傑著、春山出版、2023年12月) 461~469ページ

佐藤大介にとって、長年にわたって台湾と日本を何度も往復し両地間の反原発交流に尽力する原動力となったのは、実はありふれた一枚の写真だった。妻と子供を連れて、貢寮(第四原発予定地)の反核自救会の楊貴英を訪ねたのだ。子供の足にひどい皮膚炎があるのを見て、彼女は朝、裏山で新鮮な薬草を摘んできて、家の外にしゃがみこんで2時間かけて、潰し、挽き、抽出し、子供に塗らせるために瓶に詰めて与えた。

お互いの世話をしながら、彼らは台湾と日本の反原発運動の最新の進展について話し合い、懸念と楽観主義を分かち合った。国籍や言葉の壁を超えた共同体意識が、世代を超えて運動を前進させているのだ。

日本の呉港は、第二次世界大戦中、主要な海軍の町であり、重要な軍事拠点だった。2003年、日立の原子炉を積んだ船が呉港を出港し、翌年には、横浜港から東芝製の原子炉を積んだ船が海を渡った。

両船とも貢寮行きであったが、20年経った今も、両船が積んでいた第四原発1号炉と2号炉は静かに封印されたまま稼働していない。台湾民衆の頑強な抵抗に加え、地元住民たちからの対抗措置にも直面してきた。

上の左から2人目が楊貴英

■ 非核アジアフォーラムの設立

佐藤大介は1957年生まれ。高校時代に読んだ韓国人反体制派の詩をきっかけに植民地支配と独裁政権への抵抗の歴史を知り、大学では朝鮮語を専攻する。1980年5月、韓国の悲惨な光州事件のとき、韓国の学生や労働者への支持を示すため、キャンパスで断食運動を始めた。

卒業後、佐藤は大阪で就職し、日雇労働者の相談員として労働災害などに対応した。仕事柄、原発で働く派遣労働者と接することが多く、彼らが放射線被曝のリスクと脆弱な職場環境に直面していることを知った。労働者の権利保護に貢献するだけでなく、佐藤は上司を説得して、リスクの高い原発の仕事を労働者に紹介するのを止めさせたこともあった。そして、反原発運動に注力するようになった。

チェルノブイリ原発事故後、欧米では原発の新規建設計画は止まり、新たな市場を求める原発事業者にとってはアジアの新興国がターゲットとなっていた。日本も1990年に、中国、インドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、韓国を招いて第1回「アジア地域原子力協力国際会議」を開催した。この会議の目的は、表面的には原子力開発のための専門的な問題や人材育成について他国と議論することだったが、実際には、原発の輸出を促進するために、日本の原発の経験を宣伝した。「地域住民は、優れた福祉を受け、原発を積極的に受け入れている」と宣伝し、各国に地域住民への工作方法を教えた。

日本の原発の現実をアジア諸国に伝えるため、佐藤大介は韓国の反原発団体と連絡を取り合い、各地で反原発運動をしている人たちとともに、国境を越えたプラットフォームである「非核アジアフォーラム(No Nukes Asia Forum)」を設立した。

1993年の第1回フォーラムは日本で開催され、海外7カ国から30人が参加し、日本国内では7つのグループに分かれて原発立地地域を訪問した。台湾側では、環境保護連盟が郭建平、廖彬良ら10人の代表を派遣し、蘭ユ島の核廃棄物反対闘争や貢寮の第四原発反対運動の状況を報告した。

以来、このフォーラムは毎年アジア各国で開催され、各国の反原発ニュースを定期的にまとめ、出版物を発行して各団体の気運を維持してきた。

1995年に台湾で初めて開催された非核アジアフォーラムでは、世界各国の反原発活動家が、原発のある地域だけでなく、蘭ユ島に行って反核廃棄物の問題を学んだり、台北での第四原発反対集会とデモに参加して、当時フランスが南太平洋のポリネシアで行った核実験にも抗議した。

非核アジアフォーラムは、台湾を支援する最も重要な国際反原発ネットワークであり、現在まで台湾ではフォーラムが6回開催されている。

■ 台日原発運命共同体

「日本政府はいつも原発をうまく運転しているかのように主張しているが、実際には、日本の原発は、情報の選択的開示、嘘、ごまかしの上に成り立っている」。佐藤大介は非核アジアフォーラムで怒りを込めて指摘してきた。

台湾は日本に植民地化された歴史があり、文化的にも地理的にも近いため、日本は台湾の反原発運動にとって最も重要な同盟国となっている。


1895年に日本軍が塩寮の海岸に上陸し、50年にわたる植民地支配が始まったこと、そして日本製の原子炉2基も塩寮の海岸から台湾に上陸したことを知った後、交流のために台湾を訪れた多くの日本人は、貢寮の住民に深々と頭を下げ、「申し訳ありません、これは第二の植民地化です」と言った。

   *中略(日本の原発について)


2007年7月、新潟県でマグニチュード6.8の大地震が発生し、世界最大規模7基の柏崎刈羽原発では、放射性物質の冷却水漏れもあり、地震の影響により日本の原発で初めて長期停止した。柏崎刈羽原発の6号機と7号機で使用されている改良型沸騰水型原発(ABWR)は、第四原発に輸出されているものと同型であるため、この原発安全上の事故は、同原発の耐震性の低さを浮き彫りにし、台湾の反原発団体が特に懸念している。(訳注:柏崎市会議員たちが1990年代から何度も訪台し、ABWRの危険性を集会や記者会見などで伝えた)

1996年、アメリカのGE社が原発を落札し、日立製作所と東芝に原子炉の受注を譲渡したことで、台湾は日本の原子力産業が初めて原子炉を海外に輸出する国となった。しかし、核拡散防止条約(NPT)加盟国である日本は、国際原子力機関(IAEA)が定める「原発輸入国が原子力施設や原材料を核兵器製造に使用することを禁止する正式な協定」を、台湾と締結する義務を遵守すべきであったが、台湾と日本は正式な国交がないため、この協定締結は回避され、日本の反原発団体から批判と懸念の声が上がった。

非核アジアフォーラム日本事務局のあっせんの下、多くの日本の専門家が台湾を訪れ、第四原発の安全上の問題点を指摘してきた。たとえば、かつてGEで原発建設工程管理を担当した原発技術者の菊地洋一氏は2003年から13年にかけて3回台湾を訪れ、第四原発の建設現場の質の低さ、請負業者の工事に問題が山積していることを公然と指摘し、地震に対する台湾電力の対応能力にも疑問を呈した。2010年には地質学者の塩坂邦雄氏が台湾を訪れ、第四原発の周辺に活断層が存在することを明らかにした。(訳注:2010年には刈羽村の武本和幸氏も訪台し地形視察と記者会見を行った)

2001年に第四原発の建設が再開され、反原発運動が下火になったが、これらの専門家の証言のおかげで、原発の進行を効果的に牽制することができ、社会的関心が後退していても国民の監視から逃れることはできなかった。

台湾の反原発運動に最も熱心に反応した日本人は、山口県の瀬戸内海に浮かぶ小さな離島、祝島の住民だろう。人口300人あまりのこの島の住民の大半は、海を生活の基盤としており、1980年代初頭から、4キロ離れた離島に建設される上関原発の計画に反対する運動を続けてきた。毎週月曜日の夕方、島民たちは定期的に島内を行進し、その回数は1000回を超えている。

2006年、呉文通と崔スーシンが祝島を訪れ、ドキュメンタリー映画『こんにちは貢寮』を上映した。原発問題に関心を持つ台湾の学生、陳炯霖が通訳した。貢寮の漁師たちが漁船を走らせ、海で闘う映像を見て、祝島の住民たちは「ここと同じだ!」と叫んだ。

■ 福島原発事故後の東アジア反原発交流

台湾と同様の民主化と経済発展の歴史をもつ韓国もまた、反原発運動の重要な同盟国である。韓国の反原発運動は民主化運動の進展と大きく結びついてきた。

しかし韓国政府の原発開発への野心は、さらに強かった。将来の原発輸出国の基盤となる垂直統合システムを構築した。韓国には25基の原発があり、国内電力の3分の1を供給している。

李明博政権下(2008~13年)の韓国政府は、原発輸出を景気刺激策として利用し、20年間で80基の原発を輸出し3000億米ドルの利益を生み出す計画を立てた。2009年、韓国電力はアラブ首長国連邦(UAE)初の原発を200億ドルで落札した。バラカ原発4基が建設された。この韓国からの初の原発輸出は、「経済的奇跡であり、原子力産業の成功」と宣伝されている。

日本の54基の原発が一時停止した2011年の福島原発事故の後、世界の反原発運動は新たな活力を得た。同年、ソウル市長に当選した社会運動家の朴元淳弁護士は、「原発を1基減らそう」というイニシアチブを立ち上げ、市民に節電と再生可能エネルギーの比率を高めるよう呼びかけた。このような自治体主導のモデルは、台湾の団体にも注目され、経験を学び、交換することで、ポスト福島時代のエネルギー転換のとりくみへの道を開いている。

フィリピン、インドネシア、ベトナム、インドなど他のアジア諸国の反原発運動は、それぞれの国の社会運動や言論の自由の度合いに影響されており、これらの国の反原発活動家は、台湾、韓国、日本の活動家よりも厳しい政治的弾圧に直面している。言論の自由も市民運動もない中国では、原発は公然と議論できないタブーに近いテーマであり、一般市民が原発への疑問を表明する術はない。

地球の反対側ヨーロッパでは反原発運動が早くから始まった。台湾の反原発運動は、ドイツの「人間の鎖」による道路封鎖や裸の反原発デモなど、多くの抗議行動や文化的行動の形を借用している。

■ 反原発運動における台湾の成功と失敗:アジアにとっての指標

「福島原発事故以後、アジア各国で反原発運動は拡大した」。2019年9月に台北で開催された非核アジアフォーラムで、佐藤大介はそう語った。

戒厳令の解除、政権の交代、第四原発の建設中止と再開と凍結、第一原発の廃炉など、台湾の劇的な変遷の過程を目の当たりにしてきた佐藤は、「運動が継承されていることが、台湾と日本の最大の違いだ」という。ポスト福島の時代に多様な抵抗運動を展開し、若者を多く惹きつけた台湾に比べ、日本の社会運動は1970年前後の学生運動以降に空白期間があり、次の世代を育てることが難しかった。

廃炉時代の到来により、日本、韓国、台湾の第一世代は廃炉という茨の道に直面しており、放射性廃棄物の処分には、他国の経験を参考にする必要がある。台湾にとっても、放射性廃棄物問題は重要である。

2023年、30周年の非核アジアフォーラムが韓国で行われ、佐藤大介は「気候正義行進」のステージであいさつした。「私たちは、原発に対抗し続け、最終的には勝利するでしょう。それが歴史の必然です。しかし、できるだけ早く勝利しなければなりません。チェルノブイリや福島のような大事故が繰り返される前に、原発を終わらせなければなりません。台湾は2025年に脱原発が実現します。私たちも台湾に続きましょう。私たちの子孫のために、一緒に脱原発を実現しましょう」

「台湾は、脱原発を実現するアジアで最初の国であり、台湾の非核政策は、東アジアのエネルギー政策の発展に影響を与える」と佐藤は言う。アジア諸国は、情報を交換し、行動を起こすことで、共に学び、成長し続けなければならない。

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★『台湾廃核運動史』
https://nonukesasiaforum.org/japan/archives/2555
「2014年4月27日、「終結核電、還權於民(原発を終わらせよう、主権を市民に返せ)」と叫びながら、5万人のデモ隊が、総統府前の凱達格蘭大道から出発した。忠孝西路の台北駅に面したエリアに着いたデモ隊は、予告通り、道路占拠を図り、人数の勢いで警察の封鎖を突破し、八車線道路を15時間占拠した」

1993年6月21日、楊貴英(右端)は、幼い娘を連れて立法院(国会)に抗議に行った