(ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン事務局)
21年12月18日に行われた「第四原発の稼働を問う公民投票(国民投票)」。結果は、426万人が原発反対票を投じ、380万の賛成票を上回った。
事実上の日本の輸出原発(原子炉は日立・東芝、タービンは三菱)であり建設凍結されていた第四原発は稼働しないことが最終決定した。台湾は2025年に原発ゼロとなる。
台湾がいかにして、アジア初となる脱原発 =「非核家園」という悲願へと着実に向かいつつあるのか、これまでの台湾の脱原発運動を、『原発をとめるアジアの人びと』(ノーニュークス・アジアフォーラム編著、創史社刊)と本誌過去記事をもとにふりかえりつつ、日本と台湾の脱原発運動のかかわり、そしてこれからの日本の脱原発運動に示唆されるものについて考えてみたい。
1.第四原発反対運動の始まり
台湾では国民党軍事独裁のもと、1949年から1987年まで、38年間におよぶ世界最長の戒厳令が敷かれ、政府への批判的な言動は徹底的に弾圧された。そのような中で、国営の台湾電力によって、北部の第一(金山/チンシャン)、第二(国聖/クウォシェン)に米ゼネラルエレクトリック社の沸騰水型炉、南部の第三(馬鞍山/マアンシャン)に米ウエスチングハウス社の加圧水型炉、各2基ずつ計6基の原発が建設されてしまった。
1981年には第四原発建設予定地が北東部の貢寮(コンリャオ)と決定され、強制的に土地が収用された。第一、第二、第四原発がひしめきあい、30キロ圏内には台北市も含まれ、600万人が住んでいる。
1987年を迎えて戒厳令が解除されると、台湾環境保護連盟を結成した学者たちが貢寮を訪れ、原発の危険性を伝えた。学者たちの多くは、戒厳令下で欧米に留学して原発の危険性に関する知識を得ていたし、スリーマイル事故やチェルノブイリ事故も彼らに深い危機感を与えていた。
1988年3月1日、台湾電力が貢寮の澳底小学校で「電気の合理的利用に関する説明会」を開催した。原発については一切言及することなく、さまざまな景品が当たる抽選会などが行われ、地域住民も参加した。しかし翌日の新聞には「貢寮住民は第四原発建設を受け入れた」との記事が掲載されたため、住民たちは激怒した。そして5日後、1500人の住民が集まり、「塩寮反核自救会」が結成された。
戒厳令が解除された後は民主化闘争が高揚していったが、第四原発反対運動は人々の闘いの大きな軸であった。原発は独裁と不正義の象徴であった。軍事独裁政権下で原発建設がすすめられた韓国やフィリピン、インドネシア(計画)と同様、台湾でも民主化闘争と連動する形で第四原発反対運動が広がっていった。反原発と民主化は密接不可分の闘いでありつづけた。
環境保護連盟など多くの団体によって、毎年一万人以上のデモ、国会前での大規模な抗議行動や座り込みなどが行われた。貢寮の人々はいつもバスで大挙参加した。
民主化闘争の中から誕生した民進党も原発反対を綱領とし、国会でも反対決議や予算凍結で、第四原発建設の是非は逆転に次ぐ逆転をくり返した。第四原発建設問題は80年代末から90年代を通して台湾の最大の政治課題の一つであった。
2.1003事件の衝撃
1991年10月3日、事件が起きる。原発建設に反対する塩寮反核自救会は、抗議のため第四原発予定地の前にテントを張っていた。しかし住民との協定を破った警察が突如突入してきてテントを破壊したことで、警察と住民デモ隊との衝突が発生した。この対立の中で、地元住民の林順源氏が運転していた車が倒れ、警察官が1名死亡、2名重傷を負うという悲劇的なできごとが起きた。「1003事件」である。
反核自救会の呉文通さんは語る。「林順源一人で警官隊に包囲された。怖いに決まっている。そこで、彼はUターンしたが警官がフロントガラスをたたき、クモの巣状にヒビが入って、よく見えないなか、柱にぶつかり車はひっくり返った。ちょうど横にいた警官が車の下敷きになってしまった」
事件後、反核自救会のメンバー17人が破壊行為と公務執行妨害の罪で起訴された。そのうち15人は執行猶予となったが、現場指揮者の高清南氏と運転手の林順源氏は、それぞれ10年と無期懲役の判決を受けた。以後、国民党政府は住民団体に「暴力集団」のレッテルを貼って誹謗中傷を行ったが、反対運動の中で死傷者が出てしまったこの出来事は、貢寮の人々の心にぬぐいがたい傷を残した。
3.放射能汚染マンション
台北市で1992年、原発由来の汚染鉄材が原因となった「放射能汚染マンション」問題が発覚した。毎時数十マイクロシーベルトという高線量が確認され、汚染鉄材が建設に使用されたマンション等で暮らす人々にガンや白血病、流産などが多発し、社会を震撼させる事態となった。
被害者たちは訴訟を起こし健康被害に対する補償を求めて闘った。
放射能汚染が見つかったところは、マンション(1580世帯)以外にも、小学校、日本人客も多いカラオケバーなど、計183か所、15000人以上の被曝が確認された。
4.第3回ノーニュークス・アジアフォーラム
95年台湾での第3回NNAF(日本からは32名参加)では、第四原発反対とフランス核実験反対をつなぐ壮大な3万人デモが行われた。デモは「終結核武」「拒絶核電」と叫び、解散時には、目抜き通りの交差点のまん中で核兵器と原発の模型を燃やした。海外参加者は、ランユ島、第一・第二原発、前述の放射能汚染マンションも視察した。
そして、第四原発「敷地内」デモ、貢寮の住民たちとの交流集会でフォーラムをしめくくった。
5.ランユ島、核廃棄物と闘う先住民族
台湾南端から東約80キロにある人口3000人のランユ島は、台湾の先住民族であるタオ族の暮らす島だ。1980 年、観光産業に頼るこの島に、台湾電力は「魚缶詰工場」を建設すると偽って、原発から出る低レベル放射性廃棄物貯蔵所を建設した。82年より、放射性廃棄物のドラム缶の搬入が始まった。戒厳令解除後、タオ族の住民による「駆逐悪霊」と叫ぶ反対運動が続いてきた。貯蔵所での放射性廃棄物管理はずさんで、ドラム缶がさびで覆われたり穴が開いてしまったりしている様子がメディアでも報じられている。
島民たちは96年4月26日、放射性廃棄物の追加搬入を実力で阻止した。早朝、埠頭を400名の島民が埋めつくした。うち70名は伝統的なタオ族の戦闘服をまとい、手に長ヤリをもった。輸送船はやむなく引き返し、廃棄物ドラム缶は第一原発にもどされた。そして、島民たちは、10万本の廃棄物を2002年末までに島から出させることを台湾電力に約束させた。しかし、この約束は未だに実現していない。
また、97年に台湾電力は、低レベル放射性廃棄物を北朝鮮へ輸送すると発表したが、この計画は国際的な抗議で粉砕された。
周縁化された場所へ、マイノリティが暮らす場所へと危険な廃棄物や施設が押しつけられていく事態は、環境レイシズム以外の何物でもない。それと同時に、日本に暮らす私たちがこの問題をどう解決しようとするのかを問い返してもいる。
6.日本からの原子炉輸出
第四原発現地の貢寮では、94年の住民投票で96%が原発建設に反対した。また、96年3月には初の総統選挙にあわせ、首都台北市でも第四原発建設の是非を問う住民投票が行われ52%が反対した。
しかし、96年に第四原発建設の入札が行われてしまい、ゼネラルエレクトリック社が落札。日立と東芝が原子炉を、三菱がタービンを製造することになる。日本から原発本体が輸出されるという悪夢のような事態は、ぜったいに許すことができない。
以来、日本と台湾の間で、実に多くの人々が行き来した。たとえば、同じABWR(新沸騰水型原子炉)がある柏崎からも市会議員たちが何度も訪台し、記者会見、原子力委員長らとの交渉、大集会での発言などでABWRの欠点を伝えた。
貢寮の住民たちは97年、120隻の漁船をくり出し、原子炉が到着した際に入港を阻止するための海上訓練を行った。日の丸の描かれた大きなドーム型の原発模型を船に乗せ、海上でそれに火を放って抗議の意思を表明した(99年にも)。
97年3月には、地元「反核自救会」の住民20人が来日して通産省、東芝、日立へ抗議の申し入れを行った。反核自救会の女性の中心メンバーとしてたたかい続けてきた楊貴英さんは、「貢寮で原発建設を阻止できれば、アジア中に原発が拡散することを止められると思ってたたかっています」と話した。
台湾への原発輸出に関しては重大な疑義がある。それは、NPT(核不拡散条約)違反の問題である。NPTでは、原子力施設の移転にあたっては、受け入れ国から核爆発用に転用しないとの約束を取り付けることが求められている。しかし外務省は、日本と台湾に国交がないことから二国間協定が結べないため、米国務省から在米日本大使館に宛てられた単なる口上書をもってNPTをクリアーする根拠とみなしていた。その口上書は担当部署の責任者の署名すらない連絡文書であって核兵器への転用を行わないことを正式に保証する約束文書として通用するものとは到底いえない。
私たちは、国会での質問主意書などを通じてこの問題を追及した。政府からの答弁は「交換公文があるから問題ない。口上書が保障措置の適用を確保する」というものであった。紙切れ一枚で核不拡散が確認できると強弁する日本政府の態度はあまりに不誠実だ。
日本からの初の本格的原発輸出に対して、署名運動、日立・東芝・三菱の不買運動、集会、国会での質問、株主総会参加、政府との交渉など、日本国内でさまざまな原発輸出反対運動を展開したが、輸出を断念させるには至らなかった。
現地の様子も同様だった。住民投票で勝利しても、地方自治体や県知事が明確に反対しても建設計画はとまらず、貢寮漁民の漁業権は政府に強制的に取り上げられ、第四原発は99年に着工されてしまった。
しかし翌2000年、50年以上続いた国民党独裁は終り、「第四原発中止」を公約とした民進党の陳水扁政権が誕生する。同数の推進派と反対派で構成される「第四原発再検討委員会」の3ヶ月にわたる議論が始まった。この論戦の様子は毎週テレビ中継もされた。その結論をふまえ、10月に行政院長(首相)が建設中止を発表した。11月には過去最大規模10万人のデモも行われた。
しかし、原発建設に利権をもつ国民党の攻撃によって台湾の政局は混迷を極める。2001年1月末には国民党議員が多数を占める国会で建設継続を求める決議が採択され、結局2月14日に陳総統が妥協し建設再開となった。勝利にいったんは安堵した地元の人々の心中は察するに余りある。日本政府は、待っていましたとばかりに2月27日に輸出許可を出した。
台湾での第10回NNAF(02年)では、東電の事故隠しスキャンダルを報告。20名の海外参加者代表は首相とも会見、原発の危険を強く訴えた。
そして、03年に日立の1号機原子炉が呉港から、04年に東芝の2号機原子炉が横浜港から輸出されてしまった。私たちは呉や横須賀の平和船団の方々と協力して、海上抗議行動を行った。私たちが乗ったボートから見上げると、原子炉が積み込まれた貨物船は、真上を見上げなければ視界に入りきらないほど巨大だった。大きな波に翻弄されながら、自分たちの非力さを恨んだ。
第四原発予定地に隣接する美しい海浜公園は、日本軍が初めて台湾に上陸した地として、抗日記念碑が建てられている場所でもある。かつて日本軍が植民地支配を開始するために現れたのと同じ場所に、今度は日本の原子炉が現れたのだ。台湾の人々がこれを「第二の侵略」と表現する重みと痛みを、日本の人々が十分に受け止めていたとは言い難い。
現地貢寮の反核自救会は声明で次のようにいう。
「日本によるこのような『公害輸出』という行為に強く抗議する」「日本が台湾に原発を輸出することは、私たちの心の中に恨みと恐怖を輸出することを意味する。ある
いは悲劇を輸出するともいえる・・・・その反面、この険しい原発反対の道をここまで歩んでこれたのも、大勢の日本友人の声援と激励があったからである」
7.映画「こんにちは貢寮」
05年末、台湾から日本にメッセージが届いた。新鋭ドキュメンタリー作家ツィ・スーシンが、貢寮に住み込み、6年の歳月をかけて完成させた作品、映画「こんにちは貢寮」だ。台湾ドキュメンタリー界の重鎮・呉乙峰監督が製作にあたったこの作品は、第27回金穂賞最優秀ドキュメンタリーにも選ばれた。
激動の政治に翻弄された貢寮の人々・・・・。スーシン監督は、ひたすら貢寮の人々を見つめる。貢寮の人々の思い、怒り、悲しみ、願いを映し出す。スーシンさんは言う。「撮影の期間中に何人もの人の他界に遭遇し、いまもその映像を見るときは悲しさを禁じえません。彼らにとって原発に反対することは、まさに、この土地を愛すること、この海を愛すること、家族を愛することであったのです。貢寮の彼らの姿を見て、彼らの声に耳を澄ませてほしい。日本は原発の輸出国であるので、少しでも皆様に関心を寄せてもらえれば幸いです」
反核自救会の呉文通会長やスーシン監督らも来日し、05~06年、大阪・東京・新潟・柏崎・北九州・下関・祝島・広島で「こんにちは貢寮」上映と現地報告を聞く集いを開催した。圧巻は、なんといっても祝島だった。公民館に集まってくれた約100名(過半数は女性)の人々は、何十隻もの漁船を繰り出すシーンや、住民が電力と言い争うシーン、役人に抗議するシーンなどを見て、どよめき、「そう、そう」「おんなじじゃね」と共感の思いを口にした。同じ24年間を、同じように苦労して闘ってきたのだ。スーシンさんは「台湾での70回のどの上映会よりも反応が熱かった。心を重ねてくれていました」と言ってくれた。
映画は、1991年の1003事件で投獄された青年、源さんへの手紙から始まり、クライマックスは11年ぶりの源さんの外出許可だ。身内のところではなく、まっすぐ福隆駅に向かった源さんは、呉文通さんら出迎える住民たちと固く抱き合う。
ちょうど、祝島での上映会(06.3.18)の直前、台湾から呉さんに電話があった。「源さんが3日後に、14年5ヶ月ぶりに釈放される!」。呉文通さんが、そのことを告げると、祝島の上映会場はもう、万雷の拍手。まるで貢寮にいるかのよう。呉文通会長は力強く語った。「祝島は貢寮にそっくりです。祝島のみなさんにお会いして、とても励まされました。この映画のおかげで来ることができました。本当にうれしいです。とめるまで闘います。日本最後といわれる上関原発、台湾最後の第四原発、どちらもとめましょう!」
8.「地震と原発の危険」を伝え続ける
日本からは、「地震と原発の危険」をずっと伝え続けてきた。新潟県中越沖地震の翌08年に柏崎刈羽で行った第12回NNAFにも台湾から多数が参加した。
日本人学者が10年に第四原発および付近の地質調査を行い、新断層を発見し、直後の台湾での第13回NNAF、立法院(国会)公聴会で発表し、参加者たちは耐震基準400ガルを引き上げるようにと訴えた。
10年3月と5月に、中央制御室で火災事故、7月に28時間のステーション・ブラックアウト(全交流電源喪失)が発生した。また、11年に、第四原発で許可なく800ヶ所の設計変更がなされていたことが発覚した。状況が二転三転する中で、第四原発の建設工事はくり返し中断され、大幅に遅れることとなった。
9.福島をくり返さないで
11年3月20日、台北で5000人が反原発デモに参加し、運転中のすべての原発の即時停止と第四原発の建設中止を要求した。4月30日には全国各地で反原発デモ(計15000人)。台北デモには、福島から2人の女性が参加し、「福島をくり返さないで」と訴えた。
その後、有名な映画監督、俳優、ミュージシャン、芸能人、文化人をはじめ、内部告発者も含めて、多くの人々が原発反対の意思表現をするようになった。12年、馬総統が「原発に反対意見を言う人を見たことがない」という問題発言をして、「我是人、我反核(わたしは人だ、わたしは反核だ)」のアクションが起き始めた。台湾の有名な映画監督が企画したもの。総統府前の大通りで、60人が人文字で「人」の字をかたどって寝ころび、「我是人、我反核」と叫び、1分でパッと散っていくのだ。第2弾は台北駅で、やはりばらばらにいた人たちがコンコースで一斉に「人」の形に寝ころび、「我是人、我反核」と叫び、一瞬でパッと散る。いわゆるフラッシュモブだ。その後、同じように数名が集まって「人」の文字を作ったり、自分の指に「反核」と書いて人の文字を作ってそれをSNSにアップするなど、ネット上でのアクションが燎原の火のごとく広がった。また、アーティストたちは反核のポスター作りを始めた。
そして13年3月9日、台湾全土で20万人以上が原発反対デモに参加した。台湾の人口は2300万人なので、日本で同じ比率なら100万人だ。400以上の民間団体が連携して実現したもので、主催者発表で台北12万人、台中3万人、高雄7万人、台東数千人で、夜になってからも、道路で映画上映や、音楽など。若者たちはテントを張って夜を越した。
10.非暴力直接行動
14年3月8日、「原発廃止デモ(全台廢核大遊行)」は雨のなか、計13万人が参加した。台北のサウンドカーに引率された隊列では、行政院(政府)前の交差点で、スタッフが突然、黄色封鎖線を引いた。警察がただちに反応できずにいるなか、数千人の市民が交差点を占拠することになり、交通も遮断された。原発事故通報サイレンのような音が響き、防護服を着用したスタッフが、デモ参加者に横たわってくださいと指示。万が一原発事故が起きたら台湾の国民は死ぬほかに道がないということを表現した。この道路占拠は30分間続いた。
「不核作運動」が呼びかけられたのだ。「非暴力運動」=「非協力運動」は、台湾では「不合作運動」となっている。「合作」は「協力」の意味。「合」の北京語読みは「核」と同じなので、語呂合わせで「不核作運動」となり、「非協力」と「反原発」を同時に表わしたものだった。
続いて、中国とのサービス貿易協定の立法院(国会)承認をめぐって、3月18日から4月10日まで、立法院占拠が行われた。この前代未聞の事件を、台湾のメディアをはじめ海外のマスコミも、「ひまわり学生運動」と報道した。たしかに表に出て発言していたのは学生の代表で、立法院の中には若者が多かったが、実は多くの市民団体やNGOが支えていた。毎日数千人の市民が立法院のまわりを囲んで盾となり、3月30日には50万人集会が行われた。それほどまでに、原発推進も含めて、馬英九政権の民意無視・独断専行は度を越していたのだ。
立法院占拠の熱気冷めやまぬ4月22日、第四原発の廃止を訴えるため、民主化闘争のシンボルである林義雄さんが、死を覚悟して、かつて母と娘が暗殺された場所で、無期限断食を開始した。彼はこう述べた。「この数か月のあらゆる抗議行動で、台湾人民がすでに普遍的に覚醒したことがわかります。もし、この覚醒を有効に組織し適切な方法で鍛えれば、人民の主権者としての意識および大衆の闘争能力を高めることができ、誰も止めることのできない力となるでしょう。この力があれば、現在の権力者のやり方は通用せず、未来の台湾に、民意を軽視する独裁者はもう出現できないようにできるでしょう」
断食に呼応する形で、全国126団体による「全国廃核行動平台」が動き出した。26日、大勢の市民が総統府前に座り込んだ。その場で、翌日のデモ行進とともに道路占拠を行うことが予告された。
27日午後、「終結核電、還權於民(原発を終わらせよう、主権を市民に返せ)」と叫びながら、5万人のデモ隊が、総統府前の凱達格蘭大道から出発した。忠孝西路の台北駅に面したエリアに着いたデモ隊は、予告通り、道路占拠を図り、人数の勢いで警察の封鎖を突破し、八車線道路を15時間占拠した。
激動の事態展開のなか、馬英九政権は妥協し、2基ともほぼ完成していた第四原発の「稼動・工事 凍結」を発表した。「第四原発稼働問題は馬英九政権では凍結され、2016年に誕生する新政権下の民意に判断が委ねられることになった」と報道された。
同年9月、第16回NNAF海外参加者60余名はバスで宜蘭県の「台湾民主化運動資料館」を訪問し、林義雄さんご夫妻と有意義な時間を過ごした。林義雄さんは、国民党の軍事独裁政権下にあった1970~80年代の民主化運動指導者の一人で、美麗島事件で獄中にあった1980年2月28日に母親と双子の娘を惨殺される政治テロを経験した。その苦難を踏まえ、妻と「台湾社会運動資料センター」「台湾民主化運動資料館」などを設立した。
11.台湾から私たちが学ぶこと
反核デモとなれば数万人が結集し、目抜き通りを占拠するなど粘り強く勇敢に闘う台湾の人々。ひまわり運動では、若者たちが自分たちの意思を伝えるために国会を非暴力で占拠するという歴史上類を見ない行動も成功させた。15年3月、ひまわり運動に参加した若者二人を関西にお招きした際に、大切な話をたくさん聞かせてもらった。一人は国会の議場内で広報を担当した女性、もう一人は国会の外で議場内の若者たちを守るとりくみに参加した女性だった。
なぜ台湾の多くの若者たちがこのようなエネルギッシュな行動に結集するのかと問われて、彼女らは「私たちは、上の世代の人たちが献身的に闘う姿を見てきています。だから私たちも、同じようにやってみようと思いました」と答えた。真っ先に思い出されるのは、命を懸けて無期限の断食を開始した高齢の林義雄さんのことだ。もちろん著明な活動家だけではなく、一般の人々もそれぞれの持てる力を発揮している。
このたびの立法院占拠の際は、敷地を取り巻くようにして多数の市民がテントを張り、権力が暴力的な介入を行わないように若者を守り続けた。ひたすら炊き出しをする人々、交代で救護所に詰める医師や看護師たち、手作りの新聞を発行して情報伝達を助ける人々、ごみを拾って衛生的な環境を守り続けた人々など。そのようにして結集した人々の中には、点滴を打ちながら車いすに乗ってやってきた高齢者もいたという。アーティストたちは若者たちを支持する作品を路上に飾り、休日ともなれば子どもたちのための工作ワークショップも行われ、ひまわりをあしらった愛らしい作品がやはり路上を彩ったという。
非暴力で、それぞれができることをもちよって、決してあきらめない。38年間の戒厳令を含めて苦難の歴史と対峙した人々の経験と記憶が次の世代へと継承され、暮らしに根づき、ユーモアやあたたかみを忘れない独特のありようを可能にしている。二人の若者たちとの対話で、そのことを痛感した。
12.原発の歴史は終結へ
2016年、脱原発を公約に掲げた民進党の蔡英文が総統選挙で勝利し、翌17年、「原発の運転を2025年までに全て終了する」ことを電気事業法の条文に明記した。
原発維持勢力は巻き返しを図り、18年の公民投票で、「脱原発の達成期限(2025年)」が条文から取り払われてしまった。
しかし民進党政権の脱原発政策はもう揺るがない。19年のノーニュークス・アジアフォーラムでは、陳建仁副総統(副大統領)が、海外参加者30数名に「長年にわたる脱原発へのとりくみに感謝の意を表したい。台湾政府は、脱原発政策を堅持し、運転40年の寿命は延長せず、第四原発も動かさない」と挨拶。
原発維持勢力と国民党は「原発が、電力不足と大気汚染を解決し、さらには地球を救うことができる」と主張し、今回の「第四原発の稼働を問う公民投票」を提起したが、21年12月18日、426万人が原発反対票を投じ、ついに「終止符」が打たれた。
事実上の日本の輸出原発である第四原発は稼働せず、第一原発1・2号機、第二原発1号機は運転40年ですでに廃止となり、残る3基も25年までに廃止となる。
全国廃核行動平台は、「公民投票では、平均より高い75%の貢寮住民が原発に反対した。貢寮の人々は3世代にわたって、数え切れないほど街頭に出て第四原発に反対し、子や孫のために闘ってきた。もし貢寮の人たちの粘り強い努力がなかったら、第四原発は稼働され、台湾は非常に高い核災害のリスクにさらされていたことだろう」と評した。
13.私たちはどんな道を行くのか
日本と台湾の反原発運動が交流を始めてともに励まし合うようになってから30年が経つ。この時の流れの中で、貢寮で親しくさせていただいた少なくない方々が、すでに天に召された。そして、日本との縁が深かった二人も、私たちは忘れない。東京に暮らし、母国台湾への愛と反原発の信念をもって、日本と台湾の運動をつなげるためにすべてを捧げるように活動された何昭明さん。堪能な日本語と魅力的な人柄で、いつも私たちと台湾の若者の運動との懸け橋になってくれ、30歳で夭折したダン・ギンリンくん。
このたびの公民投票で、貢寮をはじめとする台湾の仲間たちの長年の苦労がとうとう報われた。台湾は2025年、アジア初の脱原発を実現する。日本に暮らす私たちも、台湾の人びとに続こう。これからも台湾の人々と手を取り合い、学び合って進んでいこう。その姿は、きっと次の世代へと受け継がれていくと思う。
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関連:「非核のアジアを夢見て」 王舜薇
「非核アジアフォーラムは、台湾を支援する最も重要な国際反原発ネットワークであり、現在まで台湾ではフォーラムが6回開催されている」
★ノーニュークス・アジアフォーラム通信174号
(2月20日発行、B5-28p)もくじ
・台湾廃核運動史(NNAFJ事務局)
・憐憫のない人たち(チャン・ヨンシク)/高レベル核廃棄物管理基本計画と特別法案の撤回を促す全国行動・声明書
https://nonukesasiaforum.org/japan/archives/2550
「この50年間、一方的な犠牲を強要されてきた地域と住民たちに、再び犠牲を強要しています。全国の原発があるところに「敷地内貯蔵施設」という名で、高レベル核廃棄物(使用済み核燃料)の「乾式」貯蔵施設を建設しようとしています。 これは原発がある地域と住民たちに無限の犠牲を強要することです。原発立地地域を核の墓にしようということです」
・南オーストラリア州の放射性廃棄物処分場予定地で洪水(ミシェル・マディガン)
・欧州委、原発をEUの「グリーン投資」に位置づけ
― 内外からあがる批判の声 ―(満田夏花)
・今度は加害者になるわけにはいかない(片岡輝美)
・11.13 海といのちを守るつどい アピール(これ以上海を汚すな!市民会議)
・日弁連が、汚染水「海洋放出に反対する意見書」
・水戸地裁判決の意義と限界 ― 住民運動による突破こそ本命(大石光伸)
・急展開の島根原発再稼働の動き(土光均)
・柏崎刈羽原発をめぐる新潟県の現状について(小木曾茂子)
・311子ども甲状腺がん裁判弁護団、元首相5人の書簡への非難に対し抗議声明
ノーニュークス・アジアフォーラム通信は、年6回発行。購読料:年2000円。
見本誌(174号)を無料で送ります。連絡ください → sdaisukeアットrice.ocn.ne.jp
放射能汚染鉄筋マンション(民生別荘)事件、なつかしく思い出されます。厚さ3センチの鉛板と線量計を持って台湾に入り、鉄筋の中の核種がコバルト60であることを確かめました。調査の後で立法院で記者会見もしました。日本より上等な民主主義が定着しているなぁと実感したものでした。その後の台湾政府による調査で判明した200カ所弱のビルの中には、台湾原子力委員会が間借りするビルの委員会入り口上部でも汚染鉄筋が発見されました。
この調査については、技術と人間誌に、上下2回の報告を載せてもらいました。