伴英幸さん(原子力資料情報室共同代表)が逝去したのは、昨年6月10日だった。享年72。原発不明癌と診断されてから、わずか2カ月余りのことである。山積みとなっていた文書や資料を整理したり、自身の足跡と思いをまとめたりする時間的・体力的余裕は残されていなかった。
人と人を繋ぎ、運動と運動を紡いできた伴さん。その体験を伝え継ぐために、口述記録に取り掛かったのだが……病の進行と痛み止め薬の影響で、記憶を引き出すことが日に日に難しくなっていった。そこで各地から主だった方々にご足労いただき、病床の伴さんと思い出話を語り合っていただくことに。ここに掲載するのは、NNAFジャパンの佐藤大介さんとの語らいの一部である。伴さんは、脱原発へと向かった台湾を「成功例」だと語っていた。その実現を切に願ってやまない。 (鈴木真奈美)
佐藤 伴さんにはノーニュークス・アジアフォーラムでだいぶお世話になりました。伴さんは2000年から11年までの6回のアジアフォーラムに参加してくれた。日本での、2000年、08年、11年のフォーラム、台湾での、2002年、05年、10年のフォーラムで、伴さんが主に各国報告での日本報告をやってくれた。とくに08年の柏崎と東京でのフォーラムと、11年の福島、東京、祝島、広島でのフォーラムでは、伴さんが、実行委員会での重要な役割を担ってくれた。1990年代のノーニュークス・アジアフォーラムへの原子力資料情報室からの参加は、⾼⽊仁三郎さん。最近だと、松久保さんとか。
鈴木 90年代は、仁三郎さんだったんだ。
佐藤 93年の第1回の日本のフォーラム、95年の第3回の台湾のフォーラム。97年のフィリピンでの第5回フォーラムも仁三郎さんだった。伴さんが参加した2000年代はじめのころの台湾は、民進党の陳⽔扁が総統になって、第四原発の建設が、⼀旦は中⽌の⽅向になったのに、妥協しちゃって、2001年から建設再開になって運動が落ち込んでる時期で、02年や05年のフォーラムは励ます意味もあった。
鈴木 そのころに伴さんが台湾に行ったんだ。
佐藤 2003年は、アジアフォーラムじゃないんだけど、台湾で開催された「全国非核家園⼤会」。
鈴木 伴さんは台湾に何回も行かれたのね。
佐藤 そうそう。アジアフォーラムのときだけで3回、それだけじゃなく、それ以外のいろんなシンポジウムとか、こういう非核家園⼤会とかに呼ばれて⾏った。伴さんはニュースレターに、全部、報告記事を書いてくれている。原⼦⼒資料情報室通信にも書いているけど、主にこちらに詳しいのを書いてくれている。そのころは、国⺠投票をどうするかと。⺠主化運動の象徴の林義雄さんをはじめとして、第四原発の国⺠投票を要求していたけど、第四原発現地の貢寮の⼈は「⼤丈夫か。全国でやったらどうなるのか」って⼼配したり。そういう議論があった時期。順番が逆になってしまったが、その前、2000年に台湾では「持続可能エネルギー国際会議」というのがあり、伴さんが出て報告した。
鈴木 つまり、伴さんは毎年⾏ってたんだ。
佐藤 2001年は台湾で国際新エネルギーシンポジウム。伴さん、現地にも何回も行ったよね。
伴 うん、何回も行った。
鈴木 第四原発現地で印象深かったことは?
伴 ⼀番の思い出は、あの海岸で泳いだこと。第四原発のすぐそばの海で。
鈴木 泳いだんだ。そのころってまだ砂がちゃんとあったのかしら?
伴 いや、だんだんだんだん、なくなり始めたころだったと思う。
佐藤 日本でのアジアフォーラムのときも上関原発予定地の近くで泳いでたよね。
伴 ガハハハッ
鈴木 伴さん、泳ぐの好きなんだ。
伴 好き。
鈴木 第四原発のそばの海の砂が少なくなり始めたころかぁ。地元の人たちが必ず連れていってくれる媽祖(マソ)廟に行きました?
伴 マソ。印象に残ったのは、あれだ、道教といっしょくたになっているんだ。その辺がめちゃめちゃ面白かったね。マソ廟に⾏くと、表にはマソの像があって、ちょっと裏側、裏側というと変な言い方だけど、そこに神様がいた。
鈴木 民俗信仰っていうか、道教とか、いろんなものがごちゃごちゃになって、それが台湾らしいところですよね。
伴 そうそう。
佐藤 台湾の⼈と韓国の⼈、それぞれもちろんいろんな⼈がいるんだけど、台湾の人の方がなんか優しい、柔らかい感じがあるよね。
伴 はっは。
鈴木 でも、第四原発現地の貢寮の人たちって、世代にもよるけど、かつての貢寮の⽅々とか、実⼒⾏使派が昔はいたよね。今はいないけど。
伴 そうそうそう。
佐藤 呉文通さんにしても呉慶年さんにしても、怒ったら怖いね。我々と会ったときはニコニコしているけど、台湾電⼒が相手のときは、やるときはやるって感じで、怖いねぇ。
伴 はっはっは。
鈴木 そういった交渉みたいな相⼿とやりとり、やり合うところなんか⾏きました?
佐藤 たとえば、第二原発、第四原発のPR館で質疑応答するようなとき。台湾の人は普通は本当に柔らかい。いろんな⼈がいるけど。とくに呉慶年先生はやさしかった。
伴 そうそうそう。あぁ、懐かしいねぇ。
鈴木 日本語の通訳もやってくれたしね。私は台湾では娘のように本当に親しくしてもらって。お世話になった。
佐藤 そう。呉慶年先⽣とか、張国龍先⽣とか。
伴 あの人はさ、俺のおじさんと⽠⼆つの顔なんだよ
鈴木 へぇ、そうなの。2000年に台湾でエネルギーに関するフォーラムがあって、⾼⽊さんが亡くなる直前に台湾の皆さんに向けて書いた遺稿を携えて伴さんが来てくれて、それを会場で読み上げてくれた。そのフォーラムの最中に、陳水扁政権が第四原発中止を宣⾔したんだよね。その一報を受けた張国龍さんが壇上で、歓喜の声を上げるのをこらえるみたいに、照れたような顔しながら、それでも喜びで頬を赤らめて「中止が決まった」と言ったら、私の隣にいた伴さんが、「張国龍、カッコイイなぁ」とつぶやいたのを覚えている。
佐藤 「持続可能エネルギー国際会議」ね。これが伴さんの写真。アジアフォーラムの10月のニュースレターに、報告記事を書いてくれた。
伴 そうだった。
佐藤 首相が第四原発建設中⽌と発表した。その後巻き返されちゃうんだけど。一番せめぎ合っているころにも伴さんが行ってくれた。
鈴木 それと、本当にいいことをやってくれたと、今更ながら伴さんに感謝しているのは、台湾電力が再処理契約をフランスと締結しようとしてた時に、台湾にすぐに来てくれたこと。2015年だったね。
伴 あぁ、あった。
鈴木 台湾の人たちにとって再処理は寝耳に水で、それが何を意味するか、運動関係者でさえ把握していなかった。何しろ、突然、出現したわけだから。当時、第一原発と第二原発の貯蔵プールが満杯になりつつあり、乾式貯蔵施設を建設するとしても間に合いそうもない。そこで台湾電力は、使用済み核燃料の再処理を海外に委託することにし、その入札を行おうとしていた。再処理の道を開いたら、脱原発が困難になるので、とにかく再処理契約は絶対に止めなくちゃいけないと思い、こっちでこんなことが起きていると伴さんに電話をかけたら、すぐさま飛行機を予約して、文字通り、飛んできてくれた。大きなシンポジウムをやる時間的余裕はなかったから、運動関係者を呼んで伴さんに話してもらったり、メディアのインタビューを入れたりして、再処理がなぜダメなのか、知ってもらう場を設けた。その後、米国やフランス、イギリスの人たちも動いてくれて、そこまでいけば、台湾の運動は強いし、議員も再処理代金が高いことを理由に、立法院で反対し、契約を潰してくれた。
佐藤 馬英九が第四原発を凍結したあとだね。
鈴木 はい。再処理をめぐる伴さんの貢献は、目立つ活動じゃなかったけど、台湾にとって極めて重要で、もしも、あの時、再処理契約が締結されてしまっていたら、今の台湾はないと思う。
佐藤 真奈美さんは、台湾にどのくらいいたの?
鈴木 断続的に合計で5年くらいかな。あとは、短期的な訪問。
佐藤 フランスとの再処理の契約反対は、すごい重要だったよね。
鈴木 こういう連携もそうだけど、ノーニュークス・アジアフォーラムの意義のひとつは、輸出する側と輸入する側の市⺠運動が一堂に会しているというところだと思う。その辺りで何か思い出話ある?
佐藤 タイでは福島原発事故の直前に、候補地がいくつもあって原発建設計画がぐいぐい進みそうな感じだったけど、福島事故が起こって、すぐに、原発予定地の各現地で運動が盛り上がって、あっちで二千人、こっちで何百人、っていうデモが3月にバァーンと起こって、原発建設計画は延期になった。講演に呼ばれた伴さんが4月にタイに行ったとき、2011年の夏にタイでノーニュークス・アジアフォーラムが開催される予定だったけど、日本で開催してほしいと言われた。
鈴木 それで日本でやることになったのね。
佐藤 もしも福島事故がなかったら、もちろん、ない方がいいに決まってるけど、福島事故がなかったら、タイでは原発がどんどん建ってかたもしれない。
鈴木 タイだけじゃなく、インドネシアとかもどうなんだろう?
佐藤 インドネシアとフィリピンで90年代に進められようとしたけども頓挫して、2007年と2009年に、それぞれ復活してきた原発計画をつぶしてるんだよね。
鈴木 ではあのころは、原子力産業界にとってタイが⼀番有望だったわけだ。
佐藤 そのころはね。ただもう本当に我々にとって問題なのは、やっぱり原⼦炉を輸出しちゃった台湾。伴さんが本当に台湾に関わってくれた。日本の原発輸出問題は、90年代はインドネシア、その後は、トルコ、ベトナム、インドとか他の国の話もあるのだけど。
鈴木 輸出した側である日本ということもあって、台湾っていうのは伴さんにとっても関わりが強い国だったのね。
伴 交流というか、運動の連帯が広がっていた時期でね。それはすごかったと思うよ。
鈴木 運動の連帯というのは、他に具体的な例ありますか? たとえば、原⼦炉の日本からの搬出のときとか。
伴 搬出阻⽌⾏動、やったんだっけ。
佐藤 やった。呉で2003年、日⽴の原子炉、2004年は横浜で、東芝の原子炉、海上で搬出抗議行動をやった。
鈴木 現地の⽅では?
佐藤 現地では搬⼊抗議行動。
鈴木 あと、他に何か具体的な例あるかしら。
佐藤 その前は、国会での追及とか。二国間協定がないのに、アメリカとの交換公文だけで原発輸出していいのかと。辻元清美さんや福島みずほさんとかが、質問や質問主意書など、いろいろ協力してくれた。
伴 そうそうそう。
佐藤 90年代後半から、日本で何度も原発輸出反対の集会や、交渉や、署名運動、広がらなかったけど不買運動も呼びかけたりとか。伴さんたちとよく⼀緒にやった。
鈴木 第四原発は成功例の⼀つだよね。ノーニュークス・アジアフォーラムで作ってきたネットワークや繋がりを土台としてお互いに連携しながら⽌めることができた。
佐藤 伴さん、今、成功例という言葉に、うなずいてたけど、第四原発が中止になって、台湾は脱原発に向かっている。本当によかったよね。
一同 笑い
佐藤 本当よかった。⻑いことやってきて。
伴 成功例だよね。かつての運動が、なんて言うか、世界的なネットワークの形成と、それによる共通の敵、というと、ちょっと強いかもしれないけど、共通の課題にみんなが一堂に、一緒に闘う組織が作られていった。
佐藤 2000年から2011年は、台湾の運動は落ち込んでる時期なんだよね。建設工事がどんどん進んでいた。
伴 そう、落ち込んでる時期だった。
鈴木 でも運動は続けていたんです。
佐藤 それが良かった、運動を続けて。日本でも原発のこんな問題があると伝え続けた。地震の問題とかABWRの構造の問題とか。
伴 そうそうそう。
鈴木 日本は他のアジアの国に⽐べると原発先進国なわけじゃないですか。同時に、いろんな事故の先進国でもあって、その事例を日本側から発信することは意義が⼤きかった。
佐藤 それを伴さんがやってくれた。2000年から2011年までの間、台湾の運動は落ち込んでるけども続いている。集会や、記者会⾒、台湾電⼒との交渉とかで、こんな問題がある。あんな問題があるって、やり取りした。そんな様々なことをやっていく中で、建設を遅らせてきたし、運動を続けてきたその流れの中で、福島事故の後の爆発的な盛り上がりと、建設中止に繋がっていったわけだから、成功例と言っていいのかな。90何%できちゃったっていう中で、もう駄目だなと思ってたけど、2011年、12年、13年、14年の台湾の人たちはすごかった。ずっと繋げてきたから、続けてきたから。
鈴木 運動を繋げてきたなかで、たとえば2010年のノーニュークス・アジアフォーラムで、地震と原発の問題の話があったそうだけど。
佐藤 2010年のノーニュークス・アジアフォーラムで、立法院で公聴会をしたんだけど、台湾電⼒が「第四原発の耐震は400ガルだ、⾮常に優れている」とぬかしやがるんだよ。
伴 笑
佐藤 で、伴さんが、(伴さんの声を真似して)「それでは駄⽬なんだ」と。
伴 公聴会っていうのがあるんだよね。
佐藤 日本で⾔ったら国会議員会館での集会、院内集会と似てる。台湾電⼒が「400ガルは日本での800ガルに相当する」なんてとんでもないことを言ったんで、伴さんが「それはインチキだ!」って発言した。伴さん、覚えている?
伴 うん。この写真の顔、院内集会みたいなかたちでのやりとりとか、結構覚えてる。
佐藤 いやぁ、話してるといろいろ思い出すね。芋づる式に。
鈴木 20何年間の話をしてるわけだから、つきないよね。⽴法院の公聴会のとき、どうでしたか?
伴 結構ね、シビアなやりとりは、シビアというか、結構しっかりした相手とのやりとりをした記憶はある。意外と、食い下がっていたと。
鈴木 自分が?
伴 そう。
鈴木 そのときは呉慶年さんが通訳だった?
伴 呉慶年先生? 違うよね?
佐藤 ダンギンリンくんだったかな。
鈴木 ギンリン君、懐かしい。台湾って若い世代がどんどん⼊ってくるっていうのがすごいよね。元気づけられる。
佐藤 ベテラン連中も頑張るし、若い連中もどんどん増えてきて、いいね
鈴木 日本はベテランが頑張ってる(笑)。日本ではノーニュークス・アジアフォーラムは運動のひとつだけど、台湾にとっては世界とつながる、きわめて重要な存在であり、運動の中で確固たるポジションを築いてきたと思う。その中で、伴さんがどういう貢献をしたのかが分かった。他の国ではどうかしら。
佐藤 伴さんは韓国にも何回も行っている。
鈴木 韓国の思い出は?
伴 マッコリが思い出。
鈴木 翌日⼤変だったんじゃない、酔っ払って。 マッコリ以外に思い出ある? 韓国も原発現地にずいぶん行ったの。
伴 ⾏きましたね。韓国のノーニュークス・アジアフォーラムの仲間が案内してくれて、韓国の原発は全部回ったよね。
鈴木 全部回ったの? すごい数だと思うけど。あ、そうでもないか。場所は4つか。
鈴木 情報室は海外の団体や個人と連絡取り合ったり、交流してるけど、定期的というか、コンスタントなのはやっぱり、ノーニュークス・アジアフォーラムなんじゃないかしら。
佐藤 30年間で20回のフォーラムをやっている継続的なのは特色。単発的に盛り上がる国際会議、シンポジウムというのは色々あるけれど、継続的にやってるっていうのは特色だよね。
鈴木 最後に、ノーニュークス・アジアフォーラムのエピソードとか、こういうことをやればよかったなみたいなことありますか? 伴さん、一言ある?
伴 俺は受⾝なところがあるから、積極的にこうやっておけばよかったというのはないけれども、要は、連帯と発展のキーだよね、ノーニュークス・アジアフォーラムというのは。毎年のように定期的にずっとこれを続けてきてる。そして、なんだかパワフルな女性たちが、ある種、核を作ってるよね。
鈴木 パワフルな女性?
伴 プナール・デミルジャン、トルコの。
鈴木 韓国もそうだし、台湾もそうだけど、女性たちが、みんなすごく強いよね。フィリピンのコラソンさんとかね。ノーニュークス・アジアフォーラムですごいなと思うのは⼥の⼈たちが強くて、活発で、活躍してて。
佐藤 金福女さんや、インドのヴァイシャリさんも。
鈴木 ノーニュークス・アジアフォーラムがずっと続けられてきてるのは、やっぱり⼥性の⼒っていうのがあるような気がする。
佐藤 その通り。伴さん、今、受⾝なところがあるけどとか⾔ったけど、2008年の日本でのフォーラムは伴さんが中心になって呼びかけてくれたんだよ。
鈴木 呼びかけ、伴さんだったの?
佐藤 そう。原子力資料情報室、原水禁、ノーニュークス・アジアフォーラム・日本事務局の3者で主催して、このときは伴さんが中心だった。2007年の新潟の中越沖地震の後、台湾での気候変動・国際NGOフォーラムで伴さんが環境保護連盟の施信民さんから、「来年、ノーニュークス・アジアフォーラムを日本で地震をテーマにしてやってください」と言われたの。それで伴さんが中心になって呼びかけた。2011年のときも、伴さんが積極的にやってくれた。福島事故の後に。
鈴木 伴さん、ノーニュークス・アジアフォーラムやってて楽しかった?
伴 楽しかった。楽しかった理由はやっぱり、広がりがすごく作れたこと。
鈴木 確かに、広がりが実感できるよね。実際に止めてきたていう実績も作っているし。
・・・ 後略 ・・・
鈴木 今日は、大介さんに大阪から来ていただき、ノーニュークス・アジアフォーラムの話をしていただきました。お疲れさまでした。
中島 佐藤さんがいたから、伴がいろいろ話してくれた。オーラルヒストリーで一番輝いていたのは今日だよ。
(*中島さんは伴さんのお連れ合い)
鈴木 こんなことあった、あんなことあったと思い出すことができたね。伴さん、のどかわいていない?
伴 大丈夫、大丈夫。
佐藤 また来ますよ。
伴 ありがとう
(収録日:2024年5月10日、文字起こし協力:原子力市民委員会事務局)
台灣環境保護聯盟「伴英幸先生を偲ぶ」
原子力情報室共同代表 伴英幸先生ご逝去の悲報を知り、誠に残念です。
彼は台湾の反原発運動を支援するために何度も台湾に来てくれました。
私たちは、伴英幸先生の友情と反原発運動への貢献をいつまでも忘れません。
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★ノーニュークス・アジアフォーラム通信193号
(25年4月20日発行、B5-32p)もくじ
・原子炉施設規制法改正反対、台湾を守る唯一の道はリコールだ
(全国廃核行動プラットフォーム)
・ノーニュークス・アジアフォーラム ネクスト配信開始 (とーち)
・第2、第3原発の計画も進めるトルコで政権への大規模抗議 (森山拓也)
・原発は本当に安全なのか (小原つなき)
・尹錫悦罷免に伴う声明 (密陽765kV送電塔反対対策委員会)
・「尹錫悦罷免を越え、核のない世界に向け、脱核が民主主義だ」 (脱核市民行動)
・韓国済州島の海女さんたちを訪ねました (大河原さき)
・ベトナムの原発計画が再始動 (吉井美知子)
・新潟県民投票条例否決される (小木曽茂子)
・女川を核のゴミ捨て場にするな! 女川原発を廃炉に! (多々良哲)
・北海道泊原発の現地から (佐藤英行)
・川内原発を動かすな (小川みさ子)
・3・22上関原発を建てさせない・核のゴミはいらない山口大集会 (三浦みどり)
・上関町での中間貯蔵施設の建設に反対する決議 (山口県田布施町議会)
・6.8「もうやめよう あぶない原発! 大集会inおおさか」 (木原壯林)
・311子ども甲状腺がん裁判について思うこと (阿部ゆりか)
・はじめての시위(シウィ) ~わたしたちにもできる!~ (渡辺あこ)
・伴英幸さんとの語らい -台湾とNNAFについて-
ノーニュークス・アジアフォーラム通信は、年6回発行。購読料:年2000円。
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