トネット・オレハス (Daily Inquirer 10月24日)
「私たちの抵抗の記録です」と、ローランド・シンブラン教授は、彼が編集した新刊本『非核の国 ― フィリピンにおける民衆の力vs原子力の力』について強調した。
この本の企画は10年前に始まったが、今月になってようやく出版された。シンブラン氏はインクワイアラー紙に「現在と将来の世代のために、私たちの勝利と欠点を総括し、評価するための時間が必要でした」と語っている。
この264ページの本では、彼が「成功した歴史的な闘い」と呼んだBNPP(バターン原発)反対闘争が記録されている。彼は、1981年の設立から7年間、「非核フィリピン連合」の議長を務めた。
この本は、非核フィリピン連合の設立委員長である故ロレンソ・タニアダ元上院議員、設立事務局長のホセ・クナナン牧師、暗殺されたBNPP作業員のエルネスト・ナザレノ氏など、多くの殉教者を追悼して書かれたものである。
シンブラン氏(67歳)は序文で、「フィリピン人がどのようにしてBNPPとその後の原発計画を止めたのかは、素晴らしい物語である。フィリピンの草の根反原発運動は、1970年代、80年代の戒厳令という最も抑圧的な状況下でも、そして現在に至るまで、フィリピン群島に1基の原発も稼働させないできた。私たちは、未来の世代に対して義務がある。それは、人類の生命を存続させるために、核のない祖国をつくるという約束である」と書いている。
故カカ・カリンバス氏は、「BNPPと最初に闘ったのは、当時バターン輸出加工区で働いていた労働者たちと、農民たちだった」と述べ、この言葉に真実味を与えた。
2005年に中部ルソンの軍隊を指揮していたジョビト・パルパラン元帥の超法規的殺人の犠牲になったキャシー・アルカンタラさんは生前、「バターン州で原発問題を知らない人はいなかった」と語っていた。
反原発運動は、1970年代、マニラの聖スコラスティカ大学を拠点とする「消費者保護のための市民同盟」から始まり、1981年には129団体の連合体へと発展した。
化学者でもある修道女、シスター・アイダ・ベラスケスが、後に非核フィリピン連合となるその連合体に引き込まれたのはそのころだった。
米国在住のフィリピン人化学者ホルヘ・エマニュエル博士は、科学的な情報が運動にとって重要であることを示した。
「ウエスチングハウス社が米国原子力規制委員会に輸出許可を申請したのは、1976年11月だった。その数カ月前、バターン州モロンの住民たちは、地元のメソジスト教会の牧師とシスター・アイダの支援を受けて、原発計画について調べようとした。しかし、彼らは軍の脅迫を受けた。情報を得ることができなかったので、シスター・アイダらは米国の技術専門家やフィリピン人支援団体に連絡をとった」とエマニュエル氏は書いている。
モロン教区司祭だったアントニオ・デュマウル氏は、「さまざまな方法でBNPPと闘った」と述べている。
選挙戦では、汚職、建設地の選択、古い設計、欠陥のある建設、そして人々や環境の安全性について問題提起した。
銀行の資料によると、BNPPは、独裁者であったフェルディナンド・マルコス政権の「最大の不正融資プロジェクト」となり、1984年12月の完成時には、建設費が当初の入札額5億ドルの4倍に当たる23億ドルに達していた。
非核フィリピン連合は、さまざまな形で問題を大衆化するだけでなく、歌や詩、演劇などを用いてメッセージを伝えた。「非核バターン運動」の組織化は村々で行われ、住民はBNPPが「自分たちの生活、家族、コミュニティを危険にさらす」と認識した。
1984年に完成したBNPPは、ウラン燃料を装荷して稼働する予定だったが、バターン民衆は1985年6月18日から20日までのウェルガン・バヤン(人民ストライキ)によって、これを「間一髪」で阻止したのである。5万人の地域ゼネストで、市街を埋め尽くし、軍の戦車に立ち向かった。マニラ首都圏や近隣の州からの支援者たちも、軍の脅しにもかかわらず、バターン民衆に加わった。
「非核バターン運動」の議長を務める弁護士のダンテ・イラヤ氏は、この人民ストライキが、マルコス大統領を追放した1986年2月のピープルパワー革命の前哨戦であったと指摘した。「つまりウェルガン・バヤンは、ピープルパワーの具体的な出現だったのです」と彼は言う。
海外のフィリピン人や外国人もBNPP反対運動に参加し、マルコスへの国際的な圧力を高めた。全米科学者連盟は、BNPP の4,000以上の欠陥を発見した。
コラソン・アキノ大統領が、1986年にBNPPの凍結を決定し、次のフィデル・ラモス大統領がアキノ大統領の決定を支持したのは、これらの欠陥問題やチェルノブイリ原発事故の影響もあったからである。
「BNPPの建設を始めたときに、スリーマイル島の事故が起こりました。反原発闘争真っ只中の1986年にはチェルノブイリ原発が爆発した。そして、マーク・コジュアンコ下院議員が、BNPPを復活させたいと言い出したときに、福島原発事故が起きたのです。だから、私たちは誰かに導かれているのです」とデュマアル司祭は語った。
また、非核フィリピン連合は、1987年に改訂された憲法に「フィリピン領土内に核兵器を置かない」条項を入れることに貢献した。この非核条項は、1991年に米軍基地を閉鎖する根拠の一つとなった。
しかし、シンブラン教授は警告を発する。
「アジアの原子力産業は、福島原発事故の後も計画をあきらめていません。太陽光発電が現在も将来も最も安価なエネルギーであることが証明されているにもかかわらずです。フィリピンでは、エネルギー省と科学技術省が、長期的なエネルギーの選択肢として原子力を利用する計画をあきらめていません。彼らは、BNPPプロジェクトが失敗したのは、『コミュニケーションの問題』や『広報活動が不足していただけだ』と考えているのです」
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★ノーニュークス・アジアフォーラム通信173号
(12月20日発行、B5-28p)もくじ
・4,262,451票もの強力な反原発票をありがとう
第四原発を終結させ、核のない社会へ (台湾・全国廃核行動平台)
・台湾公投(国民投票)私見 (とーち)
・蔚山、労働組合も高レベル放射性廃棄物特別法案の廃棄を要求 (イ・サンボム)
・地域を核廃棄場にする高レベル特別法案を廃棄せよ (脱核釜山市民連帯)
・2022脱核大統領選連帯・発足式 (ソン・チュヒ)
・バターン原発との闘いにどう勝利したか (トネット・オレハス)
・キンバの放射性廃棄物処分場計画、南オーストラリア州首相は州法を適用すべき
(FoEオーストラリア)
・アックユ原発の建設中にくり返される事故 (森山拓也)
・東海第二原発いらない! 12.11一斉行動 (志田文広)
・1600人が参加「12.5老朽原発このまま廃炉!大集会inおおさか」は、
・老朽原発を廃炉に追い込む出発点 (橋田秀美)
・原発マネーの不正還流、検察審査会に約1200名で申し立てます (末田一秀)
・関電原発マネー不正還流事件告発弁護団・声明(不起訴処分に対する抗議声明)
・『こんど、いつ会える? 原発事故後の子どもたちと関西の保養の10年』
発刊しました (小野洋)
・「ほっとかれへん!」と思った関西の《おせっかいな》人々の10年間 (宇野田陽子)
・長谷川健一さんは私たちを励ましている (宇野朗子)
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